【戦場の外の戦】
この間、京で幕政を取り仕切る足利直義は、常陸に援軍を送っていない。わざわざ合戦前に自派(文治派)の上杉憲顕を関東から呼び戻し、高師直派(武断派)である高師冬を遣ったきりである。直義の関心は、常陸になかったと言わざるを得ない。常陸は一進一退のまま放置し、大局を纏める事に関心が向いていたように見える。
常陸の北には南朝の結城親朝がいる。援軍を送り、刺激するのは、愚策であった。
吉野も見ておく。
この地には南朝の後村上天皇がいる。しかし、これを補佐すべき北畠親房は、今まさに、常陸で合戦中であった。だとすれば、当時、吉野の首班はだれだったのだろうか。重臣ではあるが、洞院実世や四条隆資にその任を負えない。貴族の筆頭には家柄が要るのである。
だとすれば誰か。後村上天皇は、即位時に「左大臣邸」にいた(【帝王の死】参照)。
『近衛前左大臣家』(松平結城文書・岡野友彦「北畠親房」一六七頁)
“前左大臣、近衛経忠”
左大臣とは、誰あろう、本章冒頭で京から吉野に出奔した近衛経忠であった。
後村上天皇を吉野で補佐したのは経忠だった。一三三七年四月に吉野に出奔して以来(【北朝と南朝】参照)、経忠は南朝の中枢を担っていた。
南朝は、吉野の近衛経忠と常陸の北畠親房が手を取り合い、政略を進めていたのである。
一三四〇年一月、駒城合戦を優位に進める親房に、吉野から強大な権限が認められた。
『東八ヶ国の輩、御成敗の間、直奏を止められ候』(松平結城文書・岡野友彦「北畠親房」一六七頁)
“関東八ヶ国については、親房卿に任せる”
この頃が、経忠と親房の蜜月であった。というより、吉野の首班である近衛経忠にとっても、常陸合戦は、局地戦に過ぎなかったのであろう。
当時、常陸以外の戦いは、幕府優位に進んでいた。一月二十九日、遠江では幕府方の仁木氏が三岳城を陥落させ、宗良親王を駿河に追い落としている。三月十四日、紀伊では、小山氏に対抗するため、幕府は熊野水軍の泰地・塩崎氏の取り込みを謀っている。(網野善彦「海の領主、海の武士団」・「朝日百科 歴史を読みなおす8『武士とは何だろうか』所収」)
四月、足利直義は「寺社本所領についての濫妨や押領の停止」を命じた。直義を首班とする幕府の文治派は、常陸戦線よりも朝廷との関係を重んじ、朝廷・寺社領からの兵糧調達を禁じたのである。無論、高師直ら武断派は、これに反発したが。