【戦場からの手紙2】
戦を望む者は少ない。
『さいけを一けんうらせて給へく候』
(「日野市史 史料集 高幡不動胎内文書編」七〇頁・高幡不動胎内文書 一山内経之書状)
“家を一軒売りに出してくれ”
山内経之は常陸合戦の戦費を、領地の家屋を売って調達した。
何が、経之をそうまでさせたのか。
『むかはぬ人はミな〱しよりやうをとられへきよし申候、そのほか御しやう申人ともは事に人の申候へハ、ほんりやうをとられ候也』(八六頁)
“出陣に向かわぬ者は所領の一部を没収され、異議を唱える者は本領を没収されるという”
常陸合戦のため、鎌倉に入った高師冬らであったが、東国の領主達の士気は低かった。
そこで、鎌倉府首脳部は強硬策に出たのである。
こうして、無理やり軍を募った幕府軍は、一三三九年十月出立した。経之もその中にある。
『この月の九日ハかならす〱かせん候てあるへく候』(八八頁)
“十月九日には合戦が始まる”
『しやうへせいはむけられて候也』
“軍勢はいま駒城へ向けられている”
南朝の北畠親房が拠る小田城の前線に位置する城である。
だが、十日になっても合戦は始まらなかった。幕府軍は、寄せ集めであった。
駒城合戦が始まったのは十三日以降と思われる。まず、幕府軍は下河辺荘に進軍した。
『はや〱御こひしくこそ候へ〱』(九〇頁)
“早々お前(妻)が恋しい”
対する、親房は、端から幕府軍を持久戦に引きずり込む算段であったらしい。
南朝方は、消耗を避け、下河辺荘に展開していた兵をあっさりと後退させた。
十六日頃、追う幕府軍は下総北東部山川に布陣した。
つまり、ほぼ無傷の兵が守備を固める駒城への攻撃を強いられたのである。
『にへて候又ともの人しゆしるしてつかハし候、この物とも一人ももらさて、とりて下へく候』(九六頁)
“逃亡した家臣達の名を記して送る。一人も漏らさず捕え、戦場に送り戻してくれ”
戦場からは逃亡兵が相次ぎ、幕府軍は戦場を維持するのがやっとであった。