【戦場からの手紙1】
山内経之は関東の一領主である。
訴訟による鎌倉滞在が長引き、領地の息子又けさに書状を認めていた。
『ほんふきやうきやうとへ御つかいニのほられ候しのち、ふきやうかハりて候か』
(「日野市史 史料集 高幡不動胎内文書編」一四頁・高幡不動胎内文書 一山内経之書状)
“(先日)お奉行が京に上られて、そのまま帰ってこぬ。どうやら奉行が交代するようだ”
『いかにしてもさけをかひたく存候か』
“(銭を送ってくれ、)酒を買いたいと思う”
奉行の交代は、新任の奉行に酒を振る舞い、話を聞いてもらう機会に見えたのである。
その時は、それだけの事だと考えていた。
じきに、鎌倉が慌ただしくなった。人馬の往来が激しい。
間もなく、これは常陸に拠る宮方(南軍)を討つための戦支度であると知った。
時期は、一三三九年八月頃であろうと思われる。
幕府軍を率いるのは、この合戦のため、中央から派遣された高師冬である。
してみると、経之が裁判沙汰を有利に片付けようと酒の用意を考えていた奉行の交代は、鎌倉府が戦時体制に移る前触れだったようだ。
訴訟で鎌倉に滞在していた経之は、一も二もなく合戦に駆り出される事となった。
この時代、兵糧は自前である。領地に催促するしかなかった。
『ひやくしやうとも、てんニやくかけ候しを、けふ御さたせす候よしきゝ』(二〇頁)
“百姓どもに、兵糧を持ってこいと命じたが、何も出してこないと今日聞いた”
『八郎四郎、太郎二郎入道ニ申つ□□て、つくり物ニふたをさゝせ□く候』
“八郎四郎・太郎二郎入道を使って、田畑に札を刺し、作物を差し押さえよ”
百姓の自立。領主の貧。これが、経之をめぐる領地の実情であった。
経之は、幕府の力を得て貧から抜け出すため、鎌倉に来た筈である。
だが今、幕府の命で、なけなしの財をはたき、戦場へ駆り出されようとしている。
経之は無力であった。
経之とて家族がいる、懇意の人もいる。目を掛けてやるべき従者もいた。
従者の五郎は、出立前、高幡不動堂の宿直をしたいと経之に申し出ていた。
高幡不動堂の僧「しやうしん」殿は茶の友。隣人のあらい殿は無二の友であった。
息子又けさは日頃勝手な事ばかりをする。いつも頼りきりの妻は痩せていた。