【帝王の死】
一三三九年春、九州肥後に向かう懐良親王が四条有貞のいる伊予に到着した。しかし、少弐の侵攻を受ける阿蘇惟時に軍船を送る余裕はなく、親王は三年間伊予で立ち往生した。
三月、北畠親房らの船団とはぐれ、伊勢に戻った義良親王が吉野に帰還した。共に帰還した結城宗広は既に病死している。親王が、その後、関東に入る事はなかった。
二十八日頃、越前の南朝軍(脇屋義助)が経峰の幕府軍に対し、攻勢に出た。四月、幕府は越前情勢よりも親房を重視し、高師冬を関東に送り出した。師冬は六月に鎌倉入りした。
七月二十六から二十七日、奥州の結城親朝が、瓜連か那須周辺まで来てくれという親房の要請に応じ、高野郡に進出した。この長福楯合戦で、高野郡は結城の手に落ちた。
八月十五日、こうした混迷が続くなか、吉野の後醍醐天皇は死病に倒れていた。
『夜より親王をば左大臣の亭へうつし奉られて、三種の神器を伝へ申さる』(神皇正統記)
“夜から、義良親王を左大臣邸に移し、三種の神器(天皇の証)を譲られた”
後醍醐ただ一人が君臨する南朝には上皇がいない。したがって、天皇位は、その生前に後継者に譲らなればならなかった。最後の務めを果たした後醍醐は、翌日逝去した(五十二歳)。
『秋霧にをかされさせ給てかくれましましぬとぞきこえし』(神皇正統記)
“秋霧に侵され、お亡くなりになったと伝え聞いた”
『ぬるが中なる夢の世は、いまにはじめぬならひとはしりながら、かずかずめのまへなる心
ちして老泪もかきあへねば、筆の跡さへとどこほりぬ』(神皇正統記)
“世がこのようなものなのは、今に始まった事ではないとは分かっているが、亡くなられた時の御様子が心に浮かび、老いの目にも涙が止まらず、この書を記す筆も滞る”
新天皇の後村上天皇は十二歳である。文事は洞院実世、軍事は四条隆資が補佐した。
帝王が亡くなろうとも、戦乱は続く。年若き天皇を補佐すべき北畠親房は未だ常陸にいる。
この年の秋、親房率いる南朝と高師冬率いる幕府軍との間で、東国の覇権を巡る戦いが始まった。この時期、親房は、戦を指揮しながら『神皇正統記』の初稿を書き上げている。
『王家の権はいよいよおとろへにき』(神皇正統記)
“(源頼朝の登場によって)朝廷はいよいよ衰えた”
『頼朝勲功まことにためしなかりければ』(神皇正統記)
“(しかしながら)戦乱を収めた源頼朝の勲功は先例がない”
そして、親房はその源氏の長者であった。
十月、京の足利尊氏は後醍醐天皇の菩提を弔うため天龍寺の造営を始めた。