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【忘れ形見】

一三三八年十月、九州の肥後で、薭之原ひえのはらの戦いが起きた。少弐が菊池と衝突し、甲佐・八代へ進出したのである。

十月五日、常神宮寺城が陥落し、北畠親房は、小田治久の小田城に移った。翌月、ようやく義良親王・顕信らの伊勢への帰還を知った。この上は、自らが奥羽に赴く他なかった。

北朝:石塔義房(奥州総大将)・相馬・蘆名・石川・田村・岩城、佐竹貞義

南朝:白河結城親朝(宗広の子)・伊達行朝・南部政長・葛西、小田・関・下妻・伊佐 

傍観:小山朝郷(顕家に下るも傍観的)・宇都宮・那須、大掾(常陸の独立的領主)

いま、北関東から南奥州にかけて、諸豪族は親房の登場に動揺している。はやくも、石川氏は南朝になびいた。一度は北朝に寝返った田村氏の中でも、親南朝派が活気づいた。とりわけ、葛西清貞兄弟などは、親房に対し、いまだ旗幟を鮮明にしない那須氏への攻撃を提案している。これらを背景に、結城親朝も親房の要請を受けて、石川郡に出兵している。


南奥州の結城と合流し、北の多賀国府を押さえる。しかるのち、再度の上洛戦を行う。これが親房の狙いである。しかし、佐竹ら北関東の勢力に阻まれ、親房は専ら外交と調略に意を向けざるを得なかった。まもなく、それは周囲の知るところとなり、十二月三日、結城の東隣(白河周辺)に勢力を持つ石川氏は、南朝につく条件として領地を要求してきた。

『参らざる以前に、所望地を差し出す、傍例としてしかるべからず』(吉川弘文館・伊藤喜良「東国の南北朝動乱」一〇六~一〇七頁、延元三年十二月三日・松平結城文書)

“石川一族は、参陣もせずに所領を求めてくる、容れられる筈がない”

まことに軍を動かしたなら、その戦果に応じて、他に先んじて所領も計らおう。


間もなく、関東で事が起きる。十二月十九日、足利直義は上杉憲顕を中央に呼んだ。

『暇を申すといえども、当時沙汰の趣神妙の由、その聞えあるの間、免許無きの処、伊豆守重能出仕止めらるるの上、仰せつけらるの上、仰せ付けらるべき事あり、早く上洛すべし』(吉川弘文館・伊藤喜良「東国の南北朝動乱」六十八頁、暦応元年十二月十九日上杉文書)

“憲顕殿は関東執事を辞めたがっておられたが、その裁定が評判なので、これまで容れなかった。しかし、こたび上杉重能殿が出仕を止められた(直義・高師直と並んで関東に発言力)ので、将軍から人事につきおっしゃりたい事がある。早く上洛してくれ“

 翌年二月、春日顕国が下野に進み、八木岡城・益子城・上三川城・箕輪城を落した。親房は顕国の下向を結城に伝え、併せて、顕家の忘れ形見である孫娘を親朝に託した。この孫娘については、「結城親朝養育 安東太郎貞季妻」とのみ記録が残っている(系図纂要)。

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