【風の悪戯】
一三三八年九月、北畠親房とは別に、後醍醐天皇の皇子懐良親王が征西将軍宮に任命され、傅役の五条頼元と共に西へ出航した。最終目的地は九州の阿蘇惟時だった。
『速やかにその人を撰びて、西府および東関に発遣せよ』
“(民を救うため、)すみやかに、然るべき人物を九州・関東に派遣して下さい”
北畠顕家は、二度目の上洛戦で戦死する前、九州・関東に皇子を派遣するよう上奏していた。それが認められた事になる。地方分権。南朝は、戦略を転回したのである。
懐良親王は、まず伊予国司四条有資(四条隆資の子)のもとへ向かった。北畠親房が東国に出た後の吉野では、四条隆資の発言力が増大していた。親房だけに手柄を立てさせては、あとあと面倒な事になる。隆資らの意見も、西の船団に反映されたのだろうか。
一方、東。九月十日頃、伊勢を出港した北畠親房らの船団は、風雨に見舞われていた。
『十日ごろのことにや、上総の地ちかくより空のけしきおどろおどろしく、海上あらくなりしかば、又伊豆の崎と云ふ方にただよはれ侍しに、いとど浪風おびただしくなり て、あまたの船ゆきかたしらずはべりける』(神皇正統記)
“十日頃、上総国の近くから、空の様子が不気味になり、海上が荒くなったので、伊豆の崎を漂っていたが、ますます浪風がひどくなり、多数の船が行方知れずとなった”
嵐であった。船団はちりぢりとなり、それぞれの船に乗った者の運命は別れた。
『朝敵人北畠源大納言入道以下の凶徒等、海路を経て、当国東条庄に着岸』
(烟田文書、岡野友彦「北畠親房」一四七頁)
“朝敵、北畠大納言入道らが、海路から常陸国東条庄に流れ着きました”
一人東国に漂着した親房は、近くの神宮寺城に入った。宮様はどこに行かれた。
『そもそも宮御船、ただちに奥州に著せしめ給の由、その聞え候。宇多か、牡鹿か、両所の所の間、相構え、いそぎ御坐の所を尋ねられ、馳申さるべく候』
(伊藤喜良「東国の南北朝動乱」七十四頁・松平結城文書)
“宮様(義良親王)を乗せた船は、奥州に漂着したと聞く。宇多か、牡鹿か、ただちに宮様のおわさる場所を探し、馳せ参じるのだ”
『御子の御船はさはりなく伊勢の海につかせ給』(神皇正統記)
しかし、宮様は、同船する北畠顕信・結城宗広らと共に、伊勢に帰還していた。
一方、宗良親王を乗せた船は遠江に到着し、親王は井伊谷に入った。
運悪く鎌倉に流れ着いた者達もいた。その者らは多くが討ち取られたという。