【捲土重来】
一三三八年、北畠親房は伊勢にいた。
伊勢には伊勢神宮がある。当時、伊勢国は十三郡で構成されていたが、そのうち八郡が伊勢神宮の下にあった。「神八郡」という。伊勢の大半は、伊勢神宮が支配していた。
南朝(大覚寺統の天皇)は、その伊勢神宮と仲が良かった。
鎌倉時代、“持明院統の祖”後深草上皇は、大覚寺統との融和を演じた際、伊勢斎王(皇室繁栄のために伊勢神宮に仕えに行く皇女・女王のこと)を務めた妹の帰京を祝っている(【雪解け】参照)。そうすれば大覚寺統に友好が示せたわけである。
であるからこそ、北朝(持明院統)は内心、伊勢斎王という制度が嫌いであった。後深草以降、持明院統(北朝)の歴代天皇は、ことごとく伊勢斎王を停止している。
伊勢神宮祭主・大中臣蔭直は、北朝と対立し、南朝の重鎮北畠親房を迎え入れた。ここに、三百年に亘る「伊勢国司北畠」の歴史が始まったのである。
伊勢には、もう一つ、海運がある。東の海を渡れば、東海・関東が視野に入る。伊勢大湊からは、東国に将兵を送ることが可能であった。
閏七月二十六日、北畠親房は、北朝に対する新たな戦略を開始した。
『左少将顕信朝臣中将に転じ、従三位叙し、陸奥の介鎮守将軍を兼てつかはさる。東国の官軍ことごとく彼節度にしたがふべき由を仰らる。親王は儲君にたたせ給べきむね申きかせ給』(神皇正統記)
“後醍醐天皇が、北畠顕信を従三位中将とし、鎮守府将軍として陸奥に遣わす事を決された。東国の南朝方は顕信の命に従うよう仰せられた。そして、義良親王を皇太子にされた”
すなわち、義良親王を皇太子に擁立したうえで、三度奥州に派遣することを決めたのである。
『南海道を廻りて奥州より攻め上がるべし』(保暦間記)
今回は、戦死した北畠顕家に変わって、弟顕信がこれに従う。
もはや畿内で足利の優勢は揺るがない。だが、東国はまだである。南朝に味方するもの、形成を傍観するものらを糾合し、三度目の上洛戦を挑む。
親房は、その一行を主導していた。これまで、一貫して陰で動いていたが、遂に表立った行動を取り始めたのである。伊勢には、北畠顕能(顕信の弟)を残す事になった。
九月、親房は大船団を編成し、顕信・義良親王・宗良親王らと伊勢大湊を出向した。上洛戦で、顕家と共に畿内に上っていた、結城宗広・伊達行朝らもこれに従う。
一行には北条時行の姿も見える。元々、伊勢は金沢北条氏の守護国であった。