第二章:二人の帝 ―常陸合戦―【北朝と南朝】
一三三七年四月、前関白近衛経忠が、京を抜け出し、吉野に参じた。近衛基嗣と対立し、北朝で生き場を失ったためといわれている。
当時、貴族の大半は幕府を認め、吉野ではなく京に残った。現に、京に足利尊氏がいて幕府があるのだから、南朝の理想は実のあるものに見えなかったのである。そんな貴族の一人である前関白の行動は、不可解と言えた。
「奥羽」北朝:岩崎・岩城・伊賀・伊東・相馬・石川・会津三浦
南朝:南部・伊達・結城・田村・葛西・工藤
「関東・中部」北朝:千寿王(足利義詮)・上杉憲顕・佐竹・武田・小笠原
南朝:小田・関ら(常陸)
鎌倉は北朝が押さえる。北関東に去就を明らかにしない勢力が多かった。
「北陸」北朝:斯波高経 南朝:新田残党
斯波氏が現地の寺社勢力を味方に付けて北朝優位。新田義貞が討たれた。
「畿内」北朝:光厳上皇(京で院政)・光明天皇、足利尊氏・足利直義(副将軍)・高師直
南朝:後醍醐天皇(吉野の山奥)・北畠親房(伊勢)・楠木(河内)
南朝の本拠は吉野である。東西に海が広がり、遠国との連絡が可能であった。
東:伊賀国名張郡(悪党)~伊勢国大湊(北畠親房・伊勢神宮)i
西:河内(楠木一族)~堺(商人達)~紀伊(小山氏ら水軍)
「中国・四国」北朝:細川一族・河野(最大の海賊)・大内 南朝:伊予の海賊勢力
「九州」北朝:大友・小弐・島津 南朝:菊池・阿蘇(肥後)・肝付(大隅)
北朝優位であるが、肥後のみ、菊池・阿蘇がいて、手がつけられない。
こう列挙していくと、奥羽・関東以外、南朝方は著しく劣勢にあった。
十月七日、幕府は寺社・国衙領(朝廷の所領)に関して、法を出した。
『動乱の間、諸国の大将、守護人、便宜に就いて軍勢を預け置くと云々、今に於ては雑掌を沙汰し据えうべし』(桑山浩然「室町幕府の政治と経済」二五五頁、『中世法制史料集』建武四年十月七日付追加法一条)
“動乱の間、諸国の大将・守護が寺社・国衙を占領するのを黙認していたが、今に至ったからには寺社・国衙に返すこと”
諸国の領地は、合戦の兵糧を用意するために必要であった。それが、ここに至って、必要ないと判断されたのである。当時、室町幕府の首脳部は、大勢が決したと考えていた。