【脱線二・夢窓国師、尊氏を評す】
この頃、天下の尊敬を集めたのは、夢窓疎石という僧だった。名僧として評判高く、足利尊氏・直義兄弟も帰依し、北朝の光厳上皇からは国師号を与えられていた。
疎石は、多くの為政者の信を得た。後醍醐天皇も、去る一三二五年十月、内裏で疎石と問答を交わしている。ただ、問答の内容を掴んだ花園上皇(当時は在俗)は、こう評している。
『日來道者の聞え有り。仍て召さるるところなり。而して此くの如き問答は、都て未だ敎
綱を出でず』(花園天皇宸記)
“日頃、道者と評判がある。それで内裏に呼ばれたようだが、問答の内容は禅ではない”
疎石は禅僧である。その問答が「禅ではない」と評すのだから、全否定に近い。上皇は、
鎌倉で幕府と親交を結び、京で後醍醐と会う疎石に不信を覚えていたらしい。
確かに、『夢中問答』などを読むかぎり、疎石の思想は“禅らしくない”。疎石は、『夢中
問答』の中で、「広く布教を行ない、大衆を結縁(信仰)させる」事を足利直義に説く。
その思想は、寺に籠って悟りと向き合う禅とは、どこか違う。
『此の仁を以て宗門の長老に用ひらるるは、即ち是れ胡種族を滅ぼす』(同)
“このような人物を禅林寺の長老に用い続ければ、いずれ宗門を滅ぼすだろう”
上皇の評も、故なしとはいえない。
しかし、これに関しては、花園の予想は完全に外れた。
室町時代、疎石の登場により、禅宗は政治・経済・文化を牽引し続けるのである。
思うに、疎石は「禅を逸脱した」僧というより、「禅の枠に納まらない」僧だったのだろう。疎石の仏教観は、戦乱前夜に、驚異的な脚力で諸国の寺院を修行して廻った末に得とくしたものである。また、為政者との親交も、単に「来たるものを拒まず」、虚心で向き合った結果に過ぎない感がある。疎石は、単なる政治僧とは一線を画す存在であった。
その疎石は、足利尊氏をこう評している。
『身命を捨給ふべきに臨む御事度々に及といへども。关を含て怖畏の色なし』(梅松論)
“命を捨てる場面にたびたび臨んでも、笑みを含んで、怖れる様子がない”
『多く怨敵を寬宥有事一子のごとし』(同)
“怨みのある敵を、まるで我が子のように許される”
『御心廣大にして物惜の氣なし』(同)
“御心が広く、まるで物欲というものがない”
疎石は見抜いていたのかもしれない。尊氏ほど変わった権力者も珍しい、と。