【文治の季節】
一三三八年六月、足利尊氏・直義兄弟は、関東に帰還した上杉憲顕に書状を送った。
『若御前は鎌倉へ御出候らん、目出たく候』
(足利直義・尊氏自筆御内書・上杉家文書、上島有『足利尊氏文書の総合的研究写真編』五〇~五一頁)
“義詮殿が、無事(避難先から)鎌倉へ戻られた事を、めでたく思う”
『民部大輔もとへの事書ニ近国とハかり候て、国ゝの名候ハさりし』
“さて、以前の書状には(義詮殿が治める国を)「近国」と書き、国名を書いていなかった”
『伊豆・さかミ・かつさ・下うさ・上野・下野・安房・ひたちなとにてこそ候』
“(管轄は、)伊豆・相模・上総・下総・上野・下野・安房・常陸などである”
これが「鎌倉府」の誕生である。ここまでが直義の筆、以下は、尊氏の筆である。
『たとひこれより申候ハすとも、さた候て、よく候ぬへく候ハん事をハ、たゝはからひさたあるへく候』
“例え、京からの指示がなくとも、必要と判断した事は、独自に処理してかまわぬ”
『かまへてあまりにしんしやくあるましく候』
“くれぐれも、周囲に気兼ねして、判断を曲げる事のないように”
文治の季節が到来しようとしていた。
七月十一日には、男山が陥落して春日顕国が退き、畿内の政情も安定した。
閏七月には、新田義貞の首が届いた。義貞は、斯波高経に味方する平泉衆徒が籠もる藤島城を攻めていたという。そこに、不慮の事故が起こり、あっけなく討ち取られた。
『首を都に進たりけれは、大路を渡て獄門の木に懸けられけり』(保暦間記)
尊氏は、この翌年、新田氏と縁深い長楽寺に所領を寄進し、義貞の冥福を祈った。
義貞を失った越前の新田党は、弟の脇屋義助に率いられ、なおも抵抗を続けた。
この年、畿内の南朝方の軍事活動が収まる前後から、夢窓疎石のすすめで一国一基塔婆の建立がはじまった。死者を弔い、天下の泰平を祈る事は、時代を創る者にのみ許される。
尊氏・直義兄弟、それに光厳上皇は、時代の勝者であった。
『久米田寺塔婆の事、勅願の儀として修造の功を遂げ、殊に天下泰平を祈り奉るべし』
(久米田文書、原漢文・板倉晴武「地獄を二度も見た天皇 光厳院」一三一頁)
“和泉国久米田寺の塔婆建立は、勅願である。修造を成し遂げ、天下泰平を祈るように”
諸国に建立された塔婆は「利生塔」と呼ばれ、塔婆を持つ寺は「安国寺」と呼ばれたi。
そして八月十一日、足利尊氏はようやく正二位・征夷大将軍に就任した。