【花散る】
一三三八年二月一日、北畠顕家率いる奥州軍は伊勢に入った。
越前の新田義貞はまだ来ない。
何をしている。二十一日、やむなく単独で大和に突入した奥州軍は、二十八日、奈良坂・般若坂の戦いで足利勢に敗れ、河内に逃れた。
もはや軍の疲労は極限に達し、上洛は絶望的となっていた。
だが、顕家は、義良親王・宗良親王らを吉野に帰し、一人戦場に残った。
なおも、結城宗広・伊達行朝・南部師行らと共に、河内・和泉で転戦したのである。
三月十三日、京近くの男山に、顕家本隊と別れた春日顕国(村上源氏、上洛作戦前は常陸・下野で転戦していたが、奥州軍に参加)が陣取った。これは、京に軍事的圧力をかけると同時に、足利方の大軍を分散させる事を狙いとした軍事行動であった。
そのため、足利方を率いる高師直は、河内・和泉の顕家、男山の顕国の二軍への対応を強いられ、戦いは長期戦の様相を呈し始めた。
だが、まもなく足利軍の動きが一変した。
後世、この時期に足利方が発した軍事関係の書類を精査した研究者は、その要因を、次のように解明している。
「足利尊氏が、軍勢を直接指揮し始めたのである」
事実、この時期から、尊氏の名による書状が一気に増えている。
幕府創設以来、弟直義に軍事を一任していた尊氏が、ついに動き始めたのである。
尊氏は、奥州軍の抵抗に危機感を募らせていた。
畿内の騒乱をこれ以上長引かせれば、創設間もない幕府の権威に傷が付く。
何より、越前にあって北陸掌握を目論む新田義貞に、跳梁の時を与えかねない。
一歩退いて事態を観察していた尊氏には、事の本質が見えていた。
つまるところ、幕府軍は数において宮方(南朝方)を上回る。
畿内の宮方に、これ以上の増援はない。
であるなら、兵力の分散など愚の骨頂。
北畠が描いた絵図の上で、幕府軍が踊る必要などない。
―他の軍勢には目もくれるな、顕家卿率いる本隊を叩け―
尊氏の指示を受けた高師直は、男山には抑えの兵だけを置いた。
かくして、標的は顕家に絞られたのである。
奥州軍は、足利方の集中攻撃を受け、日に日にその数を減らしていった。
五月十五日、ついに顕家は死を覚悟した。
まもなく燃え尽きようとする命。長くはなかった一生。
残せたものは何か。
顕家の脳裏に、奥羽を統治した三年間が蘇る。
思えば、この三年こそ、顕家が生きた時だったのかもしれない。
辺境ゆえに目の当たりにした地方の実情。遠国ゆえに見えた都の歪み。
顕家は、吉野への上奏を決意した。
『一所に於て四方を決断せば、万機粉紜して、いかでか患難を救わんや』
(北畠顕家奏状・『日本中世史を見直す』二五八~二六九頁)
“帝が中央で全てを決められたため、地方は混乱し、今日の救い難い状況は生まれました”
『速やかにその人を撰びて、西府および東関に発遣せよ』
“(民を救うため)すみやかに、然るべき人物を選び、九州・関東に派遣して下さい”
『以後三年は、偏えに租税を免じて、民肩を憩わしめよ』
“(そして)以後三年は、租税を免じ、民に負担を強いないで下さい”
何が正しく、何が間違っていたのか。
『辺境の士卒に逮びては、いまだ王化に染まずといえども、君臣の礼を正し、忠を懐き、節に死するの者、勝計すべからず』
“辺境の士卒は、彼らなりに帝を想い、命を賭しました”
死を目前にした今、顕家にはそれがはっきりと見えた。
『恵沢いまだ遍かざるは政道の一失なり』
“それでも勝てなかったのは、帝の政治に過ちがあったからと申す他ありません”
『陛下、諌めに従いたまはざれば、泰平期するなし』
“帝が、この諫言をお容れにならないなら、太平が実現する事はないでしょう”
『符節を辞して范蠡の跡を追い、山林に入って伯夷の行を学ばん』
“私も、官を辞し、山林に入って世を逃れたいと思います”
二十二日、顕家は和泉堺・石津浜の戦いで戦死した。まだ、二十一歳であった。南部師行がこれに殉じた。その父親である北畠親房の人が変わったのは、これ以降の事である。