【脱線一・ある村の決意】
古今東西、兵糧に窮した軍勢のする事など決まっている。
「現地調達」という名の、略奪である。連戦を続ける奥州軍も例外ではなかった。
『奥州前國司幷當國根尾山凶徒等○三入庄家』
(大友氏泰代宗運・興喜重陳状案、筑後大友文書、「南北朝遺文九州編第二巻」・一五五六号)
“北畠顕家卿の軍勢と、美濃国根尾山の凶徒が、仲村庄に攻め入り、”
『至于種子料令濫妨之間、土民等逃出忽不及耕作業』
“種子まで奪っていったため、住人は庄から避難し、耕作ができませんでした”
同国大井荘などは、さらに悲惨である。一三三五年の初冬以来、大井荘は足利と南朝双方の軍勢から、何度も略奪を受けていた。次の旨が、領主東大寺に訴えられている。
『両御方の軍勢等、日夜朝夕上洛の刻、庄家に乱入せしめ、牛馬已下資財等はその数をしらず、米・大豆等に至りてはことごとく負い運ばしめ』(「東大寺文書」『岐阜県史史料編 古代中世三』八九九~九〇〇頁・森茂暁「戦争の日本史8 南北朝の動乱」五九~六〇頁)
“双方の軍勢が、日夜朝夕関係なく上洛する際、庄家に乱入し、牛馬以下の財産は数知れず、米・大豆等に至っては、ことごとく運び去っていきました”
『散々の呵責におよぶといえども』
“私どもは、さんざん(やめて下さいと)抗議しました”
『隠し置くべき所なきにより、無代に運び取られるの間』
“しかし、食料を隠し置くところもなく、なすすべもなく持って行かれたのです”
『所詮餓死に及ぶべき』
“もはや、餓死するほかありません”
もし、村人全員が餓死しそうなら、大和まで訴え出る余力もない筈である。
おそらく、非常食の一部くらいは隠しぬき、野草を食料にして、凌いだのだろう。
だとしても、年寄りや子供は、厳しい食料事情のなか、死んでいったに違いない。
だが、村人達は、これで終わらなかった。
『身命を捨てて問答つかまつり、防ぎ申すべきのよし、同心合力』
“今後は、命を捨てても軍勢に抗議し、食糧の持ち出しを防ぐ事を、皆で誓いました”
『連日警固つかまつるにより、無窮の乱妨を停む』
“連日、庄を警固し、非道な乱暴を防いでおります”
自分達の庄は自分達で護る。争乱の中、庄の民は、生き抜くための戦いを始めた。