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【奥州軍の第二次上洛作戦】

去る一三二二年一月三日、親政を開始した後醍醐天皇は、父後宇多法皇と共に式部卿親王邸を訪れていた。

まもなく宴席が整い、法皇と帝のお出ましとなった。

姿を見せた天皇は、父法皇に拝礼する。

その光景を、公卿達は見つめる。

法皇の側近達はどこか複雑な表情で、天皇の側近達はどこか誇らしげな表情で。

そんな中、しきりに袖を拭う、老公卿の姿があった。

『内の御めのとの吉田の前大納言定房、まみいたう時雨たるぞあはれなる』(増鏡)

“帝のお傅役、吉田定房卿は、涙を止めかねる様子であった”


一三三七年七月二十日、吉田定房は、北朝に官位を返上した。自らの役割の終焉と寿命を悟ったのである。そして、この年の秋から冬にかけ、吉野に出奔した。

定房は、諸国の宮方の決起を聞き、後醍醐天皇の側で死ぬ事を決めたのである。


この夏、北畠親房は、宗良親王(尊澄法親王が還俗したi)と共に、伊勢でさかんな軍事活動を始めた。これは、最終的には、後醍醐天皇の上洛を視野に入れたものであったが、陸奥の顕家も、これに呼応して第二次上洛作戦を開始した。

八月十一日、顕家は義良親王を奉じて奥州を発った。

これに、結城宗広・伊達行朝・南部師行ら、陸奥の宮方の大半が従った。

留守には結城親朝を残すのみである。あたかも奥州を捨てるかのようであった。


十九日、奥州軍は白河関を突破し、下野小山城を攻めた。

しかし、奥州軍の二度目の上洛戦は難渋を極めた。

顕家らは、この後数ヵ月、下野で足止めされているii。

おそらく、収穫前に出立したため、兵糧物資に窮し、行動をとれなくなったのである。

大軍を擁しての活動は、絶えず自壊の危険性を孕む。

飢えた兵は、あるいは四散し、あるいは暴徒と化す恐れがあった。


皮肉な事に、奥州軍の背を押したのは、彼らが出立した後の、奥州の変化であった。

いまや、奥州は空である。宮方の軍勢が殆ど残っていない。

これに勢いづいた足利方は即座に宮方の拠点を攻撃し、その大半を攻略していたiii。

父親房は、出立前に次のような事を書き送っている。

『相構へて相構へて今度は国中留守の事ども、よくよく沙汰あるべし』(結城家文書・延元二年正月一日・岡野友彦「北畠親房」百頁)

“よいか、くれぐれも、今度は留守の事も考えて出兵せよ”

 これは、上洛に成功しながらも本拠地の情勢を悪化させた前回を踏まえての事であろう。

 親房は、顕家の果断を誇りにしながらも、危ぶんでいた。

そして、その懸念は的中したのである。

『今は奥道も塞がり候ぬ』(伊藤喜良「東国の南北朝動乱」一四〇頁・結城家蔵文書)

“奥州街道は、足利方に封鎖されてしまった”

関東北端で立ち往生する奥州軍は、すでにして、帰る場所を失った。


だが、奥州軍を率いる顕家と結城宗広らは、これを逆手に取った。

すなわち、故郷への後退をあきらめ、上洛し、中央をひっくり返す道を選んだのである。

―そうすれば、再び官軍として奥州に帰れる―

そう決断した時、奥州軍は狂兵と化した。


十二月、進軍経路にある村々から食糧を強奪しつつも、奥州軍は決死の思いで上野を踏破し、武蔵に侵攻した。

『武蔵上野の守護人防戦共、凶徒大勢なれば引き退く』(保暦間記)

“武蔵・上野の守護人達は防戦したが、南朝方が大軍であるため、退却した”

 奥州軍が強大化したのは、上野で新田義興(義貞の子)、そして、北条時行が合流したからである。新田に北条、彼らは「足利にくし」で固まった連中であった。


奥州軍は、一路鎌倉へと進撃していく。

二十三日、奥州軍は鎌倉に打入り、二十五日、足利方の斯波家長を敗死させた。

そのため、追い詰められた足利義詮(千寿王・尊氏の子)は、三浦に逃走した。

ここに、南朝方は、東国の中心地鎌倉を奪取したのである。


年を跨いで、一月二日、奥州軍は鎌倉を発した。

これを、上杉憲顕ら、関東の足利方が追う。

『桃井駿河守に今播磨守。宇津宮勢三浦介以下爲味方自跡おそひ上りし』(難太平記)

“桃井直常に、宇都宮・三浦介らが、奥州勢の後を追った”

十二日、奥州軍は遠江で宗良親王の軍勢と合流した。


しかし、事態は辛辣であった。

遠江で今川範国。三河で吉良満義・高師兼。

奥州軍の前に、次々と足利方の将が立ち塞がり、その行く手を阻んだのである。

『海道所々にて合戰なり』(同)

“東海道のいたるところで、合戦が起きた”

しかも、足利方は、いくら打ち払おうと消滅せず、後方から奥州軍を追う関東勢と合流していった。奥州軍が一歩京に近付くごとに、後背から迫る足利方はその数を増やした。


その頃、吉野。二十三日、吉田定房が、かの地で没した。六十五歳であった。

『事とはん 人さへまれに なりにけり

 我世の末の 程ぞしらるる』(新葉和歌集・一三七〇)

“心通じあった臣下が次々と亡くなっていく。我が世も長くない”

後醍醐天皇は、自らのために生涯を犠牲にした老臣の死に、力を落とされたという。

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