第一章:はるかなる京【当国擾乱】
一三三七年一月八日、奥羽の北畠顕家は、本拠地を多賀城から霊山に移した。
足利尊氏が、光厳上皇を奉じ、室町幕府を開設したのは前年の事である。
以来、当地を治める顕家らは、吉野の後醍醐天皇(南朝)に従う「逆賊」であった。
逆賊。まったく馬鹿げた話であった。
逆賊とは足利兄弟の事ではないか。
しかし、顕家の思惑に反し、奥羽では、南朝を見限る者が後を絶たなかった。
この月、そんな現地の情勢も知らず、吉野から上洛の勅命が下った。
二十五日、顕家は、これに関し、伊勢で活動する父親房に書状を送っている。
『臨幸吉野事、天下大慶、社稷安全基、此事候』(榊原結城文書・山本「新田義貞」二四三頁)
“帝は吉野に移られたとの事。天下の吉事、朝廷安定の礎、とはこの事です”
『須馳参候之処、当国擾乱之間』
“私も、一刻も早く上洛したいところですが、陸奥国では戦闘が続いております”
『令対治彼余賊、忩可企参洛候』
“逆賊の退治を終えしだい、上洛の兵を挙げます”
『去比新田右衛門督申送候之間、先而致用意候了、而于今延引、失本意候』
“実は、これよりさき、新田義貞からも(呼応して、共に上洛するよう)使者が届き、その用意をしていたのですが、不本意ながらも、上洛は今まで延びていました”
『此間親王御座霊山候、凶徒囲城之間、近日可遂合戦候也』
“この間、義良親王は霊山に移られました。城を囲む凶徒とは、近日決着を付けます”
『下国之後、日夜廻籌策外、無他候、心労可有賢察候』
“陸奥に下った後も、私は日夜(宮方勝利の)策を廻らせてきました。心労お察し下さい”
『恐欝処、披御礼散欝蒙候』
“しかし、意気消沈していたところ、父上から書状をいただき、心も晴れました”
『且綸旨到来後、諸人成勇候、毎事期上洛之時候』
“帝から綸旨を賜ったうえは、諸人勇躍し、上洛の機を窺います”
『以此旨、可令披露給候也』
“父上におかれましては、このことを宜しく帝にお伝え下さい”
現在、本拠霊山すらも敵軍に囲まれた、劣勢の一軍による上洛作戦。
無謀ともいえる乾坤一擲の軍事行動が始まろうとしていた。