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【ある男の略歴】

一三三〇年九月十七日、後醍醐天皇の一子、世良親王が逝去した。

『此の条々、去る十三日夜に之を仰せ置かる。偏に御平滅を期し記し置く能はず』

(「北畠親房」岡野友彦・四十九頁、「御遺命書」天竜寺文書)

“去る十三日夜、親王は私にこの遺言をされた。

しかし、あくまで回復を信じた私は、ご臨終まで遺命を記す事ができなかった”

当時、傅役を務めた北畠親房は、そう記している。

無理もない、親王は次の天皇になるはずだったのである。


村上源氏、源氏長者。極官、従二位大納言。

 それが、この時点で、親房という貴族に残された全てだった。

 大納言といえば、大臣の一歩手前の官位である。まずまずの健闘とはいえる。

だが、世良親王の死で、それらは終わった。

落胆した親房は、一線から退き、後醍醐天皇から離れた。

北畠の家も子の顕家に継がせた。

だから、北畠親房は、後醍醐天皇による鎌倉幕府の打倒に何ら寄与していない。


 鎌倉幕府が倒れた後、息子顕家は陸奥の国司となった。

その際、後醍醐天皇の一子義良親王を預けられ、現地へ赴くよう指示されている。当時顕家は十代だから、実質、父親房に現地に行けと言っているに等しい。

 建武の新政がまさに始まろうとする時に、京から離されるのだから、左遷であった。後醍

醐は、親房が倒幕の時に動かなかった事を忘れていなかったのである。

親房の不本意な陸奥生活は、中先代の乱まで続いた(関城書)。

乱が起きた時、親房の手によって、既に陸奥統治は軌道に乗りつつあった。親房は、迷う

ことなく乱を口実に京に戻り、その後、陸奥に赴かなかった。

だから、足利尊氏が背いた時、陸奥から上洛してこれと戦ったのは息子顕家である。

『無事の日は大禄を貧婪し、艱難の時は逆徒に屈伏す。乱臣賊子に非ずして何ぞや。罪死して余りあり』(北畠顕家奏状・「日本中世史を見直す」二六〇頁)

“無事の日は高禄を貪りながら、危機の時は逆賊に屈す。乱臣賊子でなくて何であろうか。その罪、死して余りある”

 これは、のちに息子顕家が、後醍醐天皇に送った奏状の一部である。

 若い顕家には、父親房こそが乱臣賊子に見える瞬間があったのではないか。

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