地の道 人の難 序章:ある男の略歴【本願寺誕生】
鎌倉時代、老人がいた。1173年から、89歳まで生きた。名を親鸞という。浄土真宗という宗派の開祖であった。のちに一向宗と呼ばれる宗派である。
若年の頃、法然(源信)という師に会い、念仏という教えに出遭った。
―「南無阿弥陀仏」と唱えれば、阿弥陀様の力で極楽に往生できる―
簡潔にして、不思議な教えであった。
勘の良い者は、「阿弥陀様」が日本のはるか西方ヨーロッパのさる宗教の教祖に似ている事に気が付く。やがて復活し、人類を救済して下さる、キリスト教の「イエス」である。
1096年、第一回十字軍が始まり、ヨーロッパ世界が拡大を始めて百余年。どうやら思想の方が、騎士や宣教師達よりも早く、東の果てまで届いたようだった。
後年、江戸幕府を開いた徳川家康・秀忠は、さすがの勘だったのか、「キリシタンの動きはかつての一向宗の動きに似ている」とキリスト教の弾圧に乗り出している。日本は、世界でも珍しい「キリスト教の広まっていない国」となった。
しかし、冷静に考えれば浄土真宗があるのだから、補完は効いているのである。
ある時、関東から親鸞のもとに教えを受けにきた者達がいた。人々を前に親鸞は言った。
『親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに、別の子細なきなり』(歎異抄)
“親鸞は、ただ念仏を唱えたら阿弥陀様が助けて下さるとおっしゃった師法然様の教えを信じているだけじゃ。他に子細はない”
老人は、宝をくれとやってきた人々に「わしは宝など知らん」と言ったのである。
『念仏は、まことに浄土にむまるゝたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。惣じてもて存知せざるなり』
“念仏を信じたらまことに極楽浄土に行けるのじゃろうか、それともこんな教えを信じたら地獄に落ちるのじゃろうか。まるで分からん”
南無阿弥陀仏と唱える時。人は「阿弥陀様に御縋りします」と口にしている。
だが、親鸞という人の生き物としての直感は、仏の存在そのものを疑問視した。本当に、阿弥陀様はいるのだろうか。信じる事に意味はあるだろうか。
キリスト教徒とて、時にこう思うのだろう。本当にイエス様は復活されるのだろうか。
にもかかわらず親鸞が開祖なのは、彼が人の宿命に気付いていたからだろう。
『たとひ法然聖人にすかせまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。そのゆへは、自余の行もはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまふして地獄におちてさふらはばこそ、すかされたてまつりてといふぞかし』
“たとえ法然様にだまされ、念仏して地獄におちても、全く後悔はない。自分がもし修業をして仏になれるような者だったら、念仏など信じたせいで地獄に落ちたともいえる”
『いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし』
“自分は、何かをやって救われるような者ではないから、何も信仰しなければ地獄に落ちるのはまず間違いない”
仮に阿弥陀様がいるなら、誠に極楽浄土にいける。それで良いじゃろ。
『愚身の信心におきてはかくのごとし』
“それがわしの信仰。かくのごとし”
話を聞き終えた人々は、納得と共に安堵した。
そうか、だったら念仏を唱えてみても良いのではないか。
親鸞は仏教によって人々を救おうとはしていない。そういう次元の話ではない。
『今生に、いかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし』
“この世で、誰を見ていくら可哀想だと思っても、皆も骨身にしみているように助けられはしないのだから、我らごときが修行をしても安息など来ない”
それが無残なこの世の正体である。
人は生まれ、歩み、死へと向かう。朽ちれば土に還り、草木に変わる。草木は人に食まれ、次の命を育てる。そうなるしかない。そうなるより他にない。おそらく、全てがそうなのだろう。星や太陽すらも死ぬ。宇宙も、生まれては拡大し、縮小に転じては消滅する。
だがそうだとすれば、この宇宙には万物を貫く「一つの法則」が働いているのではないか。もし、その法則を解き明かす事ができるなら。もし、その法則を制御する事ができるなら。人類という種族は、時間や生死すらも超越し、永遠に存在できるのかもしれない。
それは素数の正体なのかもしれないし、物理学の答えなのかもしれない。親鸞が、仮に「阿弥陀様」と呼び、キリスト教徒が「イエス様」と呼んで縋るものである。
『しかれば念仏をまふすのみぞ、すえをりたる大慈悲心にてさふらうべき』
“だから、念仏を唱える事だけが、人が落ち尽くべき大慈悲心だと思う”
『一切の有情はみなもて世ゝ生ゝの父母兄弟なり』
“世の者は、みな世々生々の父母兄弟なのだ”
『親鸞は弟子一人ももたずさふらう』
“親鸞に弟子はいない”
人にはただ信仰があればよい。「開祖」親鸞は、本願寺教団を創らなかったのである。
ある時、唯円という僧が親鸞に聞いた。
『念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこゝろおろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまひりたきこゝろのさふらはぬは、いかに』
“念仏を唱えても心が躍りません。今すぐ浄土に行きたいとも思えません。何故でしょう”
念仏など楽しくない。単に、死が怖いのです。
『唯円房おなじこゝろにてありけり』
“唯円もそうか。わしもなんじゃ”
『よろこぶべきこゝろをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり』
“死は当たり前のこと。なのに、それを喜べないのは、DNAのはたらきである”
『しかるに、仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の願はかくのごとし』
“「阿弥陀様」が実在して「人は死に縛られている」と嘆かれている隠れた証拠でもある“
『なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくおはるときに、かの土へはまひるべきなり』
“生きるだけ生き、それでも命尽きて力なく終わるとき、人は浄土に行けるのかもしれない”
1262年、親鸞が亡くなった後、子孫は京に残った。その一人が覚如であった。
1288年、その覚如のもとを、常陸から件の唯円が訪れた。覚如は唯円の眼に憤りが宿されているのを感じた。唯円はその憤りの訳を確認するかのように、覚如に親鸞の話を始めた。若き日の覚如は、曾祖父の言葉に最初戸惑い、ついで何かが己の前に立ち塞がったのを感じた。親鸞に弟子はいない。その言葉は、四十年間覚如を縛り、身動きをとれなくした。
そんな覚如を動かしたのは後醍醐天皇ということになるのだろうか。1331年、京は戦乱の空気に包まれた。覚如は突如「口伝抄」という本を著し、『本願寺三世』を名乗った。
1337年、覚如は、足利尊氏が勝利した京に戻り、教団を組織化していくための著述を再開した。だが、いまのところ、これは後醍醐天皇も尊氏も気に止めない些事である。
教団が朝廷の門跡となり、足利と共に織田信長と戦う数百年後など、見える筈もない。