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【花園法皇の死―もしくは尊氏西走に関する一考察―】

 一三四八年十一月十一日、花園法皇が生涯を終えた。五十二歳だった。亡くなる前は、持病の脚気も治まり、前月に、皇子の直仁親王が皇太子になった事を喜んでいたという。

『御叔父御本服三箇月儀可然哉』(円太暦)

“叔父君の心喪なのですから、三ヵ月で十分です”

『法皇御養父難被閣、可五箇月心喪』

“法皇は、我が養父である。五ヵ月の心喪に服す”

『後伏見院御事時、已著御重喪了、重又著養父御服、不存先規』

“父君の時に重喪に服したのに、養父の時にまた重喪に服すなど、先例がございませぬ”

しかし、光厳上皇は、太政大臣洞院公賢の進言を退けた。


 喪がとけた後、上皇は、他の皇子を差し置いて、直仁親王を「次の治天」にするための政治工作を進めた。親王は、宣光門院(前段参照)が産んだ皇子である。

 しかし、上皇は、一三四五年に、この親王が「自分の皇子である」と告白していた。

『子細は朕ならびに母儀女院の外、他人の識らざるところなり』

(熊谷直之氏所蔵文書、原漢文・板倉晴武「地獄を二度も見た天皇 光厳院」一三九~一四一頁)

“その子細は、私と母親である宣光門院だけが知っていた”

 あるいは、伊吹山の後、花園は宣光門院に甥の世話をさせていたのかもしれない。


さて、ここで、根本的な疑問を提示しておく。「伊吹山」と「中先代の乱」、二度も敵対した足利に対し、持明院統が表立った支援に動いた、室町幕府成立の逆転劇。

尊氏がしくじれば、今度こそ建武政権に滅ぼされるかもしれない。そんな決断を、二十二歳に過ぎない、「光厳上皇」が下せただろうか。持明院統では「後見」が伝統であるi。

持明院統を纏めるためには、今一人、重みのある人物の後押しが必要である。

『二月十七日、爲法皇後伏見院、御藥御祈』(門葉記ii)

後伏見法皇は、“あの院宣”が下された時、既に死病に倒れていた。

そうすると、残る該当者は一人である。花園法皇しかいない。

北朝成立後も、光厳は、重事について、しばしば叔父法皇に相談に行った。

更に後、北畠親房の謀略で南朝に拉致された時でさえ、その法事を絶やさなかった。

結局、その政変により直仁親王の即位は実現せず、光厳の直系も半世紀以上にわたり、

沈黙の時代を強いられた。しかし、一四二九年、その子孫は皇位に復した。

現在の皇室の祖である。その帝は、自らの号を「後花園天皇」と定められた。

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