終章:雪の日の思い出【日野名子の闘い】
一三三一年十一月一日、日蝕が観測された。その日、夜からの雪が降り積もり、都は銀世界に包まれた。だが、因習の多い貴族社会では、日蝕の日には、外に出られない。
宮人達は、清涼殿の一室に集まり、雪見を楽しんでいた。
そんな中、ひとり火元を去らず、寂しげにうつむく女官がいた。
これをみた西園寺公宗は、いたずらっぽい表情をして女官に近付き、こう話しかけた。
『こはいかなるにか、雪に怖づるにこそありけれ』(竹むきが記)
“一体どうしたというのだ。雪がそんなに怖いのか”
女官は、とたんに顔を赤らめた。
一三三三年一月十三日、女官こと、日野名子の下に、一首の和歌が届いた。
『あら玉の 年まちゑても いつしかと 君にぞ契る ゆく末の春』
“あなたと永遠の契りを交わしたい”
まもなく、先帝(後醍醐天皇)が隠岐を脱け出し、都には赤松円心の軍勢がせまった。
後伏見上皇らは御所を離れて六波羅に移り、女官達にも暇が出された。
『身一つはともかくもありなん、見置きたてまつるべき心地もせず』
“私一人の身などかまわぬ。院をお見捨てするなど、できませぬ”
女官としては、ただ一人、花園上皇の女官である正親町実子(宣光門院)だけが残った。
五月、六波羅が陥落し、後伏見上皇・花園上皇・光厳天皇は伊吹山で地獄を見た。
しかし、公宗は、家人達に邸へ連れ戻され、供をできなかった。
『世をやそむがまし』
“(このような醜態を見せた以上)出家して世を捨てたい”
『かくひたみちになしはてゝも、中空にさへや』
“このまま、(私の)そばに置いていたら、あなたの立場もなくなる”
口さがない都人達は公宗を嘲笑う。しかし、名子は夫が生き、いま自分を気遣ってくれる事が、何よりもうれしかった。優しいこの人に、争いは向かないのである。
一三三五年六月、夫が刑死した。弟の公重が、「兄が政権の転覆を企てている」と密告したのである。西園寺の家は、公重が奪い、名子も乳飲み子と共に邸を追われた。
日野名子の闘いは、この時から始まった。
それから二年。光厳上皇が治天となり、裏切り者、足利尊氏が君臨する世となった。
一三三七年、三歳に成長した西園寺実俊が従五位に叙された。
これは、父日野資名の計らいであった。しかし、その父も、翌年亡くなった。
だが、名子は家の再興を諦めなかった。
歴代天皇の后には、西園寺の女が多い。名子は、その筆頭永福門院(鏡子・【京と鎌倉】参照)に近付いたのである。実俊としばらく話をした女院は、その庇護を承諾した。
一三四〇年、六歳の実俊は従四位に叙され、光明天皇の侍従となった。
まもなく、名子のもとに朗報が届いた。
『侍従の君、移り住み給ふべう、女院の御方急ぎたゝせ給ふ』
“永福門院様から、北山第に移り住むよう、急ぎの達しがありました”
鶴の一声だった。名子と実俊は、実に五年ぶりに西園寺の邸に戻ったのである。
こののち、公重は北朝での居場所を徐々に失い、一時南朝に奔った末、自滅した。
『いづこもありしにかはらねば、おもかげ浮かぶこと多し』
“邸は、いずこも変わっておりませんでした。だから、あの人の事を思い出してしました”
この日、名子はようやく泣く事ができた。
西園寺嫡流が戻って以来、光厳上皇は、しばしば北山第を訪れた。その度に、上皇は幼い当主の受け答えや作法進退を褒めた。一三四一年十二月、実俊が七歳で元服した。
『まことや、将軍より馬、太刀たてまつらる』
“本当に驚きました事に、将軍足利尊氏殿から、馬・太刀が贈られてきました”
本人はそう記すが、これも、名子の働きかけによるものだったようだ。
『鎌倉の二品、知るたよりありて、時々きこえ通ふ』
“鎌倉殿とは、時おり、手紙を遣り取りする仲でした”
一三四二年八月、名子は霊鷲寺を訪れた。
『この山に過ぎにしあとを残され侍るを、代々の所へ移しきこゆべきを、いまだそのまゝ』
“この山に「遺骨」は納められ、未だ歴代の西園寺当主の廟所には移されておりません”
永遠に失われたものがあり、これから取り返さなければならないものがある。西園寺の再興は始まったばかりだった。名子が亡くなったのは、一三五八年の事である。
子の実俊は、一三六六年右大臣に昇進し、その子孫は太政大臣に返り咲いた。
その種を蒔いたのは、ひとりの女だった。