【南北朝時代のはじまり】
一三三六年十二月二十一日、後醍醐天皇が三種の神器を携えて花山院を脱出した。
『河内国に正成といひしが一族等をめしぐして芳野にいらせ給ぬ』(神皇正統記)
“帝は、河内の楠木正成が遺した一族を従え、吉野に移られた”
と、北畠親房(四十三歳)は記す。しかし、脱走をお膳立てしたのは、どう考えてもこの人である。まもなく、四条隆資・文観らが吉野に参じ、もう一つの政権が誕生した。
後世、これを「南朝」と呼んでいる。
脱走は隠密であったため、老齢の吉田定房などは京に残されたままとなっている。
「北朝」の光厳上皇は、老公卿の心を思い、その官位を停止しなかった。
先帝の脱走に都は動揺した。しかし、当の足利尊氏は妙に落ち着き払っていたという。
『花山院に御座の故に警固申事其期なきに依て以の外武家の煩いなり』(梅松論)
“先帝が花山院におわす限り、警固は武家が永遠に続けねばならず、実は難儀していた”
『先代の沙汰のごとく遠國に遷奉らば。おそれ有べき間』
“といって、まさか鎌倉幕府のように、遠国にお移しするわけにもいかぬ”
『迷惑の處に。今御出は太儀の中の吉事也』
“迷惑していたところ。今、自ら出て行かれたのは、大儀の中の吉事である”
『御進退を叡慮に任せられて自然と落居せばしかるべき事也』
“あの御方は、ご自身の御心のままに、身を置かれるのが一番なのだ”
『運は天道の定むる所也。淺智の強弱によるべからず』
“運は天の定むるところである。我々の浅知恵の及ぶところではない”
まるで、宮方の老臣のような物言いだった。これを耳にした人々は、「さすがは天下の将軍」と尊氏を称賛した。が、やはり合点がいかず、つい本音をもらした。
『君を迯し奉て御驚もなかりしぞ不思議の事』
“どうして将軍は、先帝が脱走したというのに、驚かれないのか。不思議だ”
だが、尊氏は嬉しかったのである。帝は、やはり帝だ。
しかし、兄とは違い、政務を切り盛りする弟の方は、そうは言っていられない。
『不知御座所之間、所奉尋方々也、嚴密可有尋御沙汰候』
(保田文書・「大日本史料第六編之二」九二一頁)
“先帝の居場所が分からないので、方々をたずねている。何としても探し出せ”
「南北朝時代」と呼ばれる、大乱の時代は、このようにして始まった。