【脱線十三・八朔の進物】
この頃、八月一日は、「八朔の進物の日」とされ、贈り物が遣り取りされた。
『蓋し是れ近古以來の風俗なり』(花園天皇宸記)
“とはいえ、こんな風習は近年始まったものに過ぎない”
花園法皇などは、これを嫌っていたらしい。
『人に於いて益無く、國に於いて要にあらず。尤も止むべきか』
“誰の利益にもならないし、国家にとって必要でもない。無くすべきだ”
現代でも、お中元・お歳暮・年賀状を、「虚礼」と嫌う人はいる。花園は、その一人だったようだ。但し、奈良時代の僧行基曰く。
『世に背くは狂人の如し、世に随うは望み有るに似たり』
“空気を読まないと狂人呼ばわりされる。世の風習には従っておくのが無難だ”
行基は、民百姓を救うために寺の外に出て活動し、遂には東大寺の大仏を作った僧である。「寺」という狭い世界の空気よりも、「民」の空気を大事にした僧だった。
これを知る法皇は、嫌々ながらも、この風習に参加していたようだ。
しかし、意地でも参加しない人もいた。一三四五年八月一日にこんな記録がある。
『左兵衞源朝臣禁制此事、敢不受於人』(光明院宸記i)
“足利直義は、贈り物を禁じ、人から受け取らないようにしているそうな”
直義は、為政者として、自らを律していたのだろう。
こんな逸話がある。ある時、どう勧めても贈り物を受け取らない直義に腹を立て、外から邸に品を投げ込んだ人がいた。こうすれば受け取らざるをえまいと思ったのである。
だが、直義の方が一枚上手だった。帰宅したその人の邸には、まもなく直義の使いが訪れた。そして、放り込んだ品は丁重に送り返されたという。
ここまで来ると、笑い話である。
一方、この手の事におおらかな足利尊氏は、喜んでこの風習に参加した。
『八月朔日などに諸人の進物共數もしらず有しかども』(梅松論)
“八朔の日には、様々な人々が将軍邸を訪れ、進物は数知れなかった”
『皆人に下し給ひし程に。夕に何有とも覺えず』
“しかし、別の来客にそれらを全て譲ってしまうので、夕方には一品も残らなかった”
但し、弟とは全く別の理由で、手元には一切贈り物が留まらなかったというii。
室町幕府の初代将軍・副将軍とは、そうした人達であった。