【室町幕府の誕生】
一三三六年十一月七日、足利尊氏(三十一歳)は「建武式目」iを定めた。
起草を行ったのは、藤原藤範・二階堂是円・少弐頼尚ら八名である。多くが、京出身の学者、鎌倉出身の官僚だった。ご覧あれ。東西がいま一つとなり、新時代が産声を上げた。
『鎌倉如元可爲柳營歟、可爲他所否事』
“本拠地は、以前のように鎌倉にするべきか、他に移すべきか”
『鎌倉群者、文治右幕下始構武館、承久義時朝臣幷呑天下、於武家者尤可謂吉土哉』
“頼朝公が居を構え、北条義時が天下を鎮めた鎌倉は、武家にとっては吉土といえる”
『爰祿多權重、極驕恣欲、積惡不改、果令滅亡畢』
“しかし鎌倉が滅びたのは、富と権力に安住し、変革を捨てたからである”
『縱雖爲他所、不改近代覆車之轍者、傾危可有何疑乎』
“本拠地の移転さえすればそれで良い、という意見こそ、最も悪質な議論である。
鎌倉幕府の失敗を改めなければ、政治の本質は何一つ変わらない”
『居處之興廢、可依政道之善惡、是人凶非宅凶之謂也』
“新たな幕府の繁栄を決めるのは政治である。「地」ではなく「人」が全てを決める”
『但諸人若欲遷移者、可隨衆人之情歟』
“皆の感情に従い、敢えて本拠地を移す我々は、肝に銘じなければならない”
誕生した室町幕府で政務を行なったのは、副将軍足利直義(三十歳)だった。
『御政道の事を將軍より御讓有し』(梅松論)
“将軍が、政治を譲れられたのである”
史実である。尊氏は、人事や恩賞だけを行ない、その他は軍勢催促さえ弟に任せた。
ある日、尊氏は直義に言った。
『國に治る職に居給ふ上は。いかにもいかにも御身を重くして。かりそめにも遊覽なく。徒に暇をついやすべからず』
“国を治める責務を担う以上、そなたは、身を重くし、仮初めにも遊覧はひかえねばならぬ。いたずらに時を費やす暇はないと思え”
『我身を輕く振廻て諸侍に近付。人々におもひ付れ。朝家をも守護し奉らむ』
“(しかし、)儂は、身を軽くして人々に懐かれ、朝廷を守護したいと思う”
これを聞いた諸将は、「どうやら粛清が始まる事はないようだ」と安心した。しかし、直義がいるため、慢心をする者は現れなかった。これを「二頭政治」と呼ぶ。