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【幻の両統迭立】

一三三六年十月、叡山を下りた新田軍には試練が待ち受けていた。

新田軍は、追撃を逃れながら、琵琶湖を船で北上し、海津に到着したi。

目指すは越前敦賀。かの地は、弟脇屋義助が国司を務めた国で、新田に味方する者が少なくない。義貞は、越前を拠点に北陸を掌握し、反撃に転じるつもりだったのである。

だが、敦賀に通じる七里半街道には、足利方の守護、斯波高経が待ち構えていた。

京で苦戦を続け、いま越前へと落ち延びる軍勢では相手にならぬ。

やむなく義貞は、街道を迂回し、木ノ目峠を越える道を選んだ。

ここで悲劇は起きた。この年は、小氷期気候に当たる年だった。

『大雪にあひて軍勢共寒さの爲に死す』(梅松論)

“大雪にあって、新田義貞の軍勢は、凍死した”

例年に勝る豪雪が新田軍を襲い、視界を塞ぐ。軍勢は散り散りとなり、脱落者が相次いだ。義貞は死ぬ思いで峠を踏破し、十三日、ようやく金ヶ崎城にたどり着いたというii。


尊氏は、北に逃げた義貞に止めを刺すため、各国に指令を発した。

『北国に趣くと云々、早く要害に馳せ向かい、誅伐あるべきの状くだんの如し』

(三浦和田文書・山本「新田義貞」二三八頁)

“義貞は北国のどこかに逃れた。すみやかに軍勢を動かし、これを討て”

この文書の送り先は、越後の三浦和田茂実である。越後には、国府を中心に、新田党が蔓延っていた。そのため、尊氏はここに手をまわしたのである。

京での戦は終わった。だが、諸国の戦は始まったばかりであった。

 今、諸国を見渡したところ、一国とて乱のない国はない。鎌倉時代に始まった諸家の本家と分家の争い。抵抗を続ける北条残党。京を窺う宮方。

諸勢力は、“政治体制の変遷とは関係なく”生き残っていた。

そして、それは武士層だけの話ではなかった。寺社・商人・海の民・山の民・村々の民。諸勢力の利害は錯綜し、未だこれを纏める目処はたっていない。

 

だからこそ、尊氏は新たな時代の幕開けに、敢えて両統迭立を選んだのである。

将軍尊氏は天下の七分を治め、新たな国造りをする。そして、後醍醐天皇にはそこから漏れた三分を治めていただく。尊氏の考え出した「乱世の処置箋」だった。

十一月、後醍醐上皇から光明天皇へ、「三種の神器」(のちに南朝は偽物と主張)が引き渡され、十四日に成良親王(後醍醐の皇子)が皇太子となった。

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