【第二次京都争奪戦】
一三三六年五月二十七日、後醍醐天皇は、迫る足利軍を恐れ、比叡山に移った。
その際、持明院統の光厳上皇らが、同行を求められた。
『山門行幸、欲被伴申之處、依御惱不慮御逗留』(皇年代略記i)
“(しかし)同行を求められた院は、病を理由に京に残られた”
冷静に考えて、この時に宮方が持明院統の身柄を確保しておけば、それこそ足利尊氏には、打つ手が無くなった筈であるが、後醍醐はそれをしなかった。あるいは、上皇なしで足利が勝利すれば、後々朝廷の存亡に関わると判断したのかもしれない。
まもなく、足利方の仁木頼章・今川頼貞軍が入京を果たした。
『去春九州御下向の時捨奉りし輩多く降參す』(梅松論)
“九州に敗走する際に新田に寝返っていた者達も、多くが降参した”
六月三日、花園法皇・光厳上皇が、尊氏に合流した。
これをもって、持明院統は、数年にわたる逼塞を抜け出したのである。
五日、足利直義の主導で、山門攻めが開始された。
朝敵呼ばわりされ、北畠顕家軍が背後から迫ってきた前回とは違い、今回は勝てる。
そう判断するや、“例の病気”がぶり返し、尊氏は弟に戦いを一任していた。
『千種忠顕討死す』
“(この日の戦いで、)千種忠顕が討死した”
そして、戦況は足利方の優勢であった。
だが、宮方には後がない。まもなく、足利方は思わぬ反撃を受けた。
まず六日、紀伊の熊野沖で、足利方の新宮上綱が、宮方の小山実隆に敗れた。これによって、周辺の制海権は宮方に残り、畿南に宮方の根が残ってしまった。
更に九日、兄尊氏に代わって軍勢を指揮する直義は、こんな命令を出している。
『東坂本へ馳向うべきの旨、先立って仰せられ候といえども、西坂本合戦最中なり』
(正木文書・峰岸「新田義貞」一〇五頁)
“東坂本に向かえと、先立っては命令したが、西坂本で合戦が起きている”
『時刻を廻らせず、重ねて京都陣を催すべき』
“(美濃・尾張・伊賀・志摩・近江の軍勢には)一刻も早く京に陣をしいて欲しい”
当初、この軍勢は東坂本から比叡山を攻める手筈だった。しかし、宮方の反撃が思いのほか強く、直義は京の陣を厚くする事を余儀なくされたのである。
三十日、宮方は最後の攻勢に出た。宇治、竹田、南口。各道から宮方が洛中に迫り、東寺を目指す。その主力は、東から攻める新田義貞・名和長年勢であった。
数に劣る宮方の狙いは、足利方の諸将を分散させる事にあった。
法成寺河原に高師直、宇治に細川頼春、竹田に今川頼貞、南口に高師泰、三条大宮に山名時氏。宮方の分撃に、足利方は個別の対応を強いられ、東寺への進路に隙が生じた。
新田・名和勢は、一気に洛中へ突入した。
尊氏の陣取る東寺まで、あと少し。
もはや、それは軍略ではなかった。尊氏一人を討てばよい。尊氏さえ討てば、足利方は四散する。新田勢・名和勢は、刺客の集団と化していた。
しかし、名和勢が東寺に取り付いた時、突如小門が開いた。
『東寺の小門開ひて。仁木兵部大輔頼章。上杉伊豆守重能以下打て出責戰』(梅松論)
“東寺の小門が開き、仁木頼章・上杉重能勢が出撃してきた”
痛恨の新手であった。尊氏は、本陣に、仁木・上杉勢を温存していたのである。
『伯耆守長年并余党数千人、或討取之、或生取』
(足利尊氏御判御教書(切紙)・小笠原家文書・東京大学史料編纂所蔵、『足利尊氏文書の総合的研究写真編』三八頁)
“名和長年と配下数千人を、あるいは討ち取り、あるいは生け捕った”
長年は、ここで力尽きた。建武政権で重用された「三木一草」は、ここに枯れ果てたのである。一方、義貞も、細川定禅に敗れ、辛うじて叡山に落ち延びた。
七月、戦いの舞台は近江・河内・和泉へと移ろうとしていた。
既に一ヵ月。長引く戦いに、将士らの疲労が目立ち始めた。五日、尊氏が動いた。
『東国山道令馳参之輩、暫令居住近江国、打止山徒往反及兵粮』
“東国・東山道から馳せ参じるよう命じた、(甲斐・信濃勢を率いる)小笠原貞宗殿には、近江にしばらく駐留し、僧兵の往来・兵糧の流れを断ち切ってもらいたい”
東近江に陣を張り、比叡山への糧道を封鎖するよう、命じたのである。
そして、書状に、こう付け加える事を忘れなかった。
『爰如風聞者、義貞以下可令没落東国云々』
“ところで、噂によれば、新田義貞は東国に落ち延びようとしているらしい”
義貞をここで仕留められなかった場合の、東国が戦場となる可能性の示唆であった。
遠国の者は、何かと口実を設けて働き惜しみをする。それをさせないためであった。
叡山封鎖には、佐々木導誉率いる近江・伊勢勢までもが投入された。
叡山の兵糧が尽きるのが先か、京が飢餓で崩壊するのが先か。
八月十五日、豊仁親王(光厳の弟)が二条良基邸で元服し、光明天皇として即位した。
『以正慶天子爲治世之主』(元弘日記裏書ii)
“政務は光厳院が行なわれる事になった”
その際、若年で、即位年数も少ない光厳の執政を疑問視する声が、一部の貴族から起こった。確かに、持明院統のこれまでの在り方を考えれば、ここは政治経験豊かな花園法皇が院政を行なうべき状況ではある。しかし、尊氏はあくまで光厳の院政を求めた。
おそらく、花園も、甥のために貴族達の声を抑えに回ったのだろう。
こうして北朝が誕生した。尊氏の要望で、その朝廷は「建武」の年号を用いた。
十七日、尊氏は清水寺に参拝し、願文を奉納した。
『この世ハ夢のことくに候』
(足利尊氏自筆願文・常盤山文庫所蔵文書、『足利尊氏文書の総合的研究写真編』四〇頁)
“この世は、はかない夢のようなものです”
『猶々とくとんせいしたく候』
“私は、一刻も早く、こんな世を捨てたい”
『今生のくわほうにかへて、後生たすけさせ給候へく候』
“現世の権力など、望んではいないのです。来世の救いこそが欲しい”
『今生のくわほうハ直義にたハせ給候て、直義あんをんに、まもらせ給候へく候』
“現世での果報は、弟直義にお与え下さい。直義を、どうか安らかにお守り下さい”
思えば、突出する弟や家臣達に引きずられ、心ならずもここまで闘ってしまった。
しかし、尊氏は後醍醐天皇の下で、征夷大将軍をしたかったのである。
尊氏は、兵糧に窮した宮方に対し、密かに和睦の交渉を始めた。
十月九日、最後まで抗戦を主張した新田義貞が、洞院実世と共に山を下りた。
『東宮幷尊良親王義貞等、趣越前國』(元弘日記裏書)
“義貞は、恒良親王・尊良親王を奉じて、越前に逃れた”
十日、後醍醐天皇が、吉田定房・宇都宮公綱・菊池武敏らと共に帰京した。
『尊氏、本望なりとて悦て奉じ迎て』(保暦間記)
“尊氏は、(先帝の帰京を)本望であると喜んだ”
先帝には、皇子の成良親王を皇太子にすると打診してある。
今の帝は持明院統。次の帝は大覚寺統。朝廷は両統迭立に戻る。それが尊氏の選んだ終幕であった。しかし、その中に、尊澄法親王(宗良)・北畠親房の姿は見えなかった。