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【湊川の戦い―楠木正成最期の策―】

一三三六年四月九日、後伏見法皇が崩御した。享年四十九歳。持明院統の将来を憂えた法皇は、勝利を見る事なく、生涯を終えたのである。全ては光厳上皇の手に委ねられた。


五月五日、海路上洛を開始した足利軍は備後鞆の津に到着した。この地で、尊氏は、軍を水陸の二つに分けた。十日、海路を尊氏が、陸路を弟直義が率い、進軍が再開された。

『梅松論』によると、両軍の編成は次のようなものだった。

・海路軍:足利尊氏(大将)・高師直(副将)、譜代の家臣、関東・京の有力者

・陸路軍:足利直義(大将)・高師泰(副将)、九州・中国勢、関東・京の諸氏

海路を進む尊氏は、四国勢(細川・河野)との合流を目論んでいる。東に向けて航海する海路軍の前に、間もなく、足利の家紋を付けた船五百隻が、姿を現した。

 しかし、事前の連絡が上手くいってなかったためか、少しばかり混乱が起きた。

『楠が謀に御方と號して向ふなど聞えて少々騒ぎたり』(梅松論)

“楠木正成が、味方に偽装し、攻めてきたのではないかと少々騒ぎになった”

足利軍は、小なりといえど、楠木正成を恐れていたようだ。

一方、陸を行く直義も、海路軍と歩調を合わせ、軍を東へ進めていく。その役割は、道々で中国勢を吸収する事と、備前の脇屋義助軍(義貞の弟)を蹴散らす事であった。

直義は、大軍を着実に運用する手腕に関しては見るものがあったらしく、この時は、見事兄の期待に応え、十八日備前から脇屋勢を追い落している。


播磨に近付く足利の大軍を前に、新田義貞・脇屋義助兄弟は、なすすべもなく後退していく。白旗城の囲みも解け、尊氏は十九日、田室で赤松円心との再会を果たした。

『せめ口に捨置旗百餘流持參す』

“攻め口に捨置かれていた旗を、百あまり持参いたしました”

赤松円心という男は、本当に目端がよく利く。

これによって、新田軍の陣容をつかんだ尊氏は、こう言った。

『御方へ戰功有輩は少々見ゆる』

“以前、味方に付いていた者も少々見える”

おそらく、尊氏が西走している間、新田軍から攻撃を受けないため、そうしたのだろう。だが、昨日の都合で動いた連中など、明日の都合で何とでも動かせる。

『是等もはたして御方に參るべし』

“これらも、(今後の)情勢次第で、味方に付くだろう”

『中々快悅の御顔色なりし』

“将軍は、お喜びの様子であった”

あるいは、足利尊氏の凄味は、このあたりにあるのかもしれない。尊氏の脳裏には、相次ぐ寝返りで崩壊する新田軍の姿がありありと浮かんでいた。まもなく、天下は決する。

 事はすべて、尊氏の思惑通りに動いているかに見えた。


 だが、その頃、尊氏の思惑を封じようとする人物が尼崎に着陣していた。

『今度は君の戦必ず破るべし』

“こたびは、君の戦、必ず敗るべし”

悲壮な表情をして戦場に立つ将こそ、摂津・河内・和泉国守護、楠木正成である。

 恐るべきは、宮方の敗北を確信しながら、なお戦場に臨んでいる事である。そして、戦場にありながら、正成の目は、足利との決戦ではなく、“戦後”に向けられていた。

 正成は、何故か息子正行らを決戦の地に連れず、河内に配している。足利との決戦に、一兵でも多くを必要とする時に、である。河内に護るべきものがあったのだろうか。

その一つは、「堺―紀伊」沿岸部の制海権だろう。宮方には、紀伊の小山氏らがいる。間もなく誕生する南朝が、半世紀以上にわたって命脈を保ったのは、経済都市「堺」の商人達を味方に付け、紀伊の水軍と結んで畿南の制海権を確保したからである。

商人に水軍。武家の尊氏では、所詮彼らを生かしきれない。だからこそ、正成は後醍醐天皇を仰ぐ。正成亡き後も、楠木一族は河内に割拠し、南朝の民を護り続けるのである。


まもなく、楠木軍は新田軍と合流し、湊川に着陣した。

尊氏率いる水軍は、このあたりで上陸を決行するだろう。しかし、山と海に囲まれた地である。山間部の地形を利用すれば、敵の大軍に一矢報いる機も訪れよう。

失うのは、正成の命一つ。護るのは、宮方に生き場を求める者達の未来であった。


 五月二十五日、足利軍と新田・楠木軍は衝突した。この「湊川の戦い」で、足利方は水陸両軍を展開している。海路軍は足利尊氏が指揮し、陸路軍は足利直義が指揮する。

対する宮方は、新田義貞軍を本軍とし、楠木正成軍を支軍とする。

西から順に位置関係を確認しよう。西には足利直義軍が布陣した。直義軍北の「山の手」には斯波高経勢が、南の「浜の手」である和田岬西岸には少弐頼尚勢が布陣した。陸路軍は、三方から東進することになる。これに対処するのは湊川に布陣する楠木正成・正季(正成の弟)である。正成は直義軍と対峙し、正季は斯波勢に対応する。

ならば、少弐勢は誰が止めるのか。新田軍しかいない。新田軍は和田岬東岸に先方を置いていた。しかし、ここで疑問が生じる。ならば、海路軍の動きには誰が対処する。

まさか、船戦の経験に乏しい義貞は、水陸両軍に対処できると考えていたのだろうか。


巳の刻(午前十時)、戦いは少弐勢の和田岬東岸への進撃をもって始まった。これを見た尊氏は、海路軍の主力を挙げて和田岬南岸への上陸作戦を決行した。その結果、新田軍は西と南の二方から攻撃を受けた。堪らず、新田軍先方の脇屋義助勢は、後方に退いた。


事態が急転したのはこの後だった。

『四國の勢。兵庫の敵を落さじとて生田の森の邊よりあがりける』

“四国勢が、兵庫に陣取る義貞軍を逃すまいと、生田の森から上陸した”

和田岬の“更に東”へと進軍した、「海路軍の別動隊」が、突如生田の森で上陸を開始したのである。この戦いで、尊氏の采配は巧緻を極めた。尊氏は、細川定禅率いる別働隊に新田軍後方、つまり京への退路の遮断を命じたのである。

このままでは東西から挟撃される。慌てた義貞は軍を東に後退させた。そして、生田の森で細川勢としばし交戦したあと、浮き足立ち、京への退却を開始した。


細川勢は、退却する新田軍を、追撃しようともしなかった。

『定禪義貞には目をかけずして』

“定禅は義貞には、目もかけなかった”

『湊川に楠正成殘て大手の合戰最中のよし聞えしかば、下御所の御勢に馳加』

“湊川に楠木正成が残って、合戦しているのを察知し、直義勢に加わった”

辛辣にも、西の楠木軍目掛けて転身したのである。

こうして、未だ西方で直義軍・斯波勢と戦う楠木軍は東西から包囲された。

水路尊氏軍・陸路直義軍の連携。別働隊による新田軍の動揺。そして今、別働隊を再利用した新田軍・楠木軍の分断。正成は敗北を悟った。直義軍・斯波勢は、この後、一刻も早く楠木軍を敗走させ、新田軍の追撃にうつるだろう。全軍崩壊の危機だった。


この危機に、正成は戦場に残る事を決意した。やはり、新田では足利は討てぬ。

正成は、己の正しさを噛み締めながらも、“最後の策”を打つ事を決めた。

そこまで生きたいなら、義貞を生還させてやる。直義軍を足止めし、新田軍を一兵でも多く、戦場から離脱させるのだ。その代わり、義貞には「役割」を負ってもらう。

楠木軍最後の戦いが始まった。それは捨て身であり、楠木軍は死兵であった。

しかし、直義は、長時間にわたる攻勢を凌ぎ、楠木軍を壊滅に追い込んでいった。


十分な時間を稼いだ事を悟った正成は、ようやく逃走を開始した。

『疵を被る、をりから布ひきに候なん』(諸庄々文書案全i)

まず、傷を負った者から布引瀧方面に落ち延びさせる。その後、自らも二十八騎を伴い、

戦場からの離脱を図った。だが、既に周りは、足利の大軍あるのみである。

 正成は、湊川周辺のとある村に逃れた。粗末な小屋がある。

主従は、ここでしばしの休息を取った。だが、程なく、細川勢がこれを嗅ぎつけた。

『申時、小家に火をかけ自害仕候』

“申時(午後四時)、楠木正成は、小屋に火をかけ、自害した”

楠木正成自害。享年は分かっていない。二十八騎もこれに殉じた。

小屋の火を見た細川勢は、慌てて既に息絶えた正成の首を捕った。

『魚御堂申候僧所へ所領五十丁の処を寄て、孝養』

“魚御堂という所へ所領を寄進して、孝養が行なわれた”

正成の首は二日間晒された後、懇ろに供養された。

こうして、楠木軍との激戦に疲れ、正成の首級に満足した足利軍は新田義貞を逃した。その間、西宮で反撃を試みてきた新田軍を打ち破ったにもかかわらず。


思い出してもらいたい、足利の敵は「後醍醐天皇」に見えるが、政治的には「新田義貞」である。現に尊氏は光厳上皇を奉じている。天皇と敵対しているのは“上皇”だった。

尊氏は“あくまで、院の命令で、義貞と戦っているに過ぎない”のである。

したがって、新田軍を温存して足利と衝突させ続ければ、もともと後醍醐天皇との戦いを望まない尊氏の事である。義貞を逆賊にする事を条件に、和睦を持ちかけてくるだろう。

『義貞を誅伐せられて尊氏卿を召かへされて。君臣和睦候へかし』(梅松論)

正成は、自らの死で、これを実現する路を開いた。“楠木正成最期の策”だった。


その頃、大和には北畠親房の姿が見られる。

『只今は北畠殿拾市に坐られ候か』(諸庄々文書案全)

前回とは違い、息子の参戦は望めない。息子が再び上洛するには、時を要する。

そう判断した親房は、「準備」を始めていた。吉野周辺に足を運び、周辺の豪族を懐柔し出したのである。同じ頃、息子の顕家は、ようやく多賀国府に帰還した。

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