【将の器】
一三三六年三月二日、鎮守府“大将軍”北畠顕家が権中納言に任じられた。また、父の親房も、この頃従一位となった。京争奪戦での働きが評価されたのである。
この間、建武政権の動きは遅い。足利尊氏を追い落したのは二月十二日である。一体、半月も何をやっていたのか。同じ期間に、尊氏は政治工作も戦略の練り直しも終え、院宣をたてに諸将を各地に派遣し、自らは大宰府を抑えているのである。
三月十日、新田義貞が、ようやく尊氏討伐のため京を発った。
正成の進言を警戒したのかもしれない。いずれにしろ義貞は出遅れた。そして、この後、播磨の白旗城に籠もる赤松円心に捉まり、更に時間を浪費するのである。
同じ日、北畠顕家率いる奥羽軍も、義良親王を奉じて帰国を開始した。
その際、親王は三位に叙されている。これは、兄成良親王(四位)を超える位であり、皇子の中でも特別な信任を得た事を物語っている。また、顕家には、常陸・下野の統括が命じられた。この時点で、尊氏の再起は伝わっていた筈だが、それを無視して帰国せねばならぬほど、東国の戦況は切迫していたのだろう(【尊氏の西走】参照)。
なお今回、父の北畠親房は、後醍醐天皇の相談役として京に残った。
あるいは、この時期の尊氏こそが、異常なのかもしれない。多々良浜の戦いに勝った後、尊氏は、即座に恩賞・安堵を行ない、九州の大半の勢力を味方に付けた。
その後も休む事なく、三月十三日に大友貞順(兄貞載と異なり宮方)の籠もる豊後国玖珠城に軍勢を送り、二十日には日向・大隅の宮方(伊東氏・肝付氏)に畠山直顕・島津貞久を充てている。そして、四月二日には、九州を一色範氏に任せ、再度上洛の途に就くのだが、この間わずか一ヵ月。しかも三日には、大宮司の職を餌に、阿蘇の分家を寝返らせ、菊池・阿蘇の動きを封じる事にも成功している。
これらと並行して、再上洛のため、軍勢催促・兵糧確保・兵船調達・政治工作を行なった訳だから、尊氏も配下の官僚達も化け物じみている。いつ寝ていたのだろうか。
一方、義貞は、未だ白旗城を抜けないでいた。
『四日後巻御敵等寄来』(『南北朝遺文中国四国編』・『萩著閥閲録』所収、山本「新田義貞」二一二~二一三頁)
“四日、(新田軍に従い、南門を攻めていると、)敵が背後から攻めてきた”
円心の巧みな用兵に、翻弄され続けていたらしい。
後世、「義貞は白幡城を囲み、貴重な時間を失った凡将」と評される。しかし、義貞の
敗因は一戦場に限定されるものではない。また、尊氏の勝因も戦場に限定されない。