【老将の死】
ある時、新田義貞・楠木正成・名和長年が、共に出仕する事があった。その席で、「討幕の功者」についての話が出た。その際、正成は、こう断言したという。
『元弘忠烈者勞功輩雖惟多』(菊池武朝申状)
“元弘の折、忠義を示した者は、確かに多い”
『獨依勅諚墜一命者武時入道也。忠厚尤爲第一蝦歟』
“しかし、勅命を奉じて命を捨てた者は、菊池武時ただ一人。忠義は抜きん出ている”
この正成の発言が、後醍醐天皇の耳に届いたからだろうか。菊池一族は、建武政権から肥後・対馬の国司職を与えられた。
一三三六年二月二十八日、少弐頼尚が足利尊氏を九州に迎えるため、軍勢を率いて大宰府を離れた事を察知した菊池武敏は、突如その留守を襲った。
菊池一族には、「九州三人(少弐・大友・島津)」に対し、怨みがある(【死闘】参照)。九州三人が、「源頼朝の再来」と仰ぐ尊氏と対決する事に、ためらいはなかった。
二十九日、大宰府は陥落し、少弐妙恵入道(頼尚の父)は、博多から追い落とされた。
妙恵は己のうかつさを呪った。まったく、馬鹿をやってしまった。将軍の到着に浮付き、軍勢を二分する愚を犯すとは。将軍のために用意した、馬も武具も、灰となった。
『合戰に討負る條面目を失ふ間。老後の存命無益なり』(梅松論)
“合戦に負け、面目を失った以上、老いの身を長らえても一族の恥となるだけだ”
『二方の御下向に命を奉るより外別に何の志かあらん』
“両将軍(尊氏・直義)の御下向に、この命を捧げるほか、一族の名誉を守る道はない”
三十日、妙恵は内山で腹を切った。
妙恵噴死の噂は、まもなく筑前芦屋の尊氏の陣にも伝わった。これに驚いた尊氏は、頼尚に対して、この風説が本当であるのか尋ねた。しかし、頼尚は、これを否定した。
『御前にては虚説のよしを申てぞ退出仕ける』
“頼尚は、尊氏の御前では、それは虚説であると申し上げ、退出した”
この時、頼尚は、内山から送られてきた僧から、父の最期の言葉を受け取っていた。
『將軍を御代に付奉るべし』
“将軍を御代につけまいらせよ”
頼尚は、父の死が味方に伝わり、軍勢の士気が損なわれる事を恐れたのである。
そのため、軍全体が妙恵の死を知ったのは、宗像神社に着いた後だった。