【尊氏の西走】
一三三六年二月十三日、海路九州に逃れる足利尊氏は、室津に停泊した。
九州に向かう尊氏は、東を振り返らなかった。東国には千寿王や上杉らがいる。
事実として、この月、行方不明だった北条時興(泰家が改命)が宮方に付いて信濃で挙兵したが、小笠原貞宗に敗れ、今度こそ正真正銘の行方不明となっている。
また、一ヵ月後に奥州への帰途に着いた北畠顕家も、関東で連戦している。
尊氏は、西国の武士団を捨てる事を何よりも恐れた。
東国に引き返せば、西国の武士は、二度と尊氏に従うまい。
それを避けるための九州落ちであった。
したがって、この西走は逃走ではない。西国に楔を打つ“進軍”であった。
まもなく、軍議が開かれ、西国諸国に将を配す事が決められた。
〇四国(伊予除く):細川一族 伊予:河野通盛 播磨:赤松円心 備前:石橋・松田 備中:今川顕氏・貞国 安芸:桃井・小早川 周防:大島・大内長弘 長門:斯波高経・厚東(峰岸「新田義貞」一〇三~一〇四頁・「足利政権成立期の一門守護と外様守護」)
これと合わせ、尊氏は次の宣言を行なった。これを「元弘没収地返付令」という。
『元弘以来被収公所領事、如元可有知行之如件』(『南北朝遺文 中国・四国編』二四七号)
“(足利に味方するなら)鎌倉幕府から与えられた所領を、再び治めてよい”
これこそ、諸国の武士の望みであった。
武士達はこぞって足利陣営に駆け付けた。
二月十三~十七日i、三宝院賢俊が、待ちに待った光厳上皇の院宣を尊氏に届けた。
『新田義貞与党人を誅伐すべきの由院宣』(硯田叢書所収三池文書・山本「新田義貞」二一四頁)
“新田義貞に味方する者を誅伐せよとの院宣を賜った”
ここに、尊氏は逆賊の汚名を雪ぎ、戦いは「両統の対立」へと構図が変わった。
賢俊は、日野資名の弟である。以前から足利とは協力関係にあったii。
という事は、持明院統の一部は、早くから足利と結んでいた事になるのだろうか。
もう一つ。歴史の陰で活躍した人々を紹介しておく。西走する尊氏が、矢継ぎ早に政治決定を行なえたのは、旧鎌倉幕府の官僚達が、これに従っていたからである。
摂津親秀らは、敗走する尊氏を見限らず、黙々と実務を助けていたiii。
次の時代を切り開くため。彼らは、室町幕府の設立に生涯を捧げる運命にある。
この戦いは、もはや尊氏だけの戦いではなかった。