【第一次京都争奪戦】
一三三六年一月、足利軍は京に殺到しようとしていた。北畠顕家軍が背後から上洛するまでに、勝負を決めねばならない。八日、足利尊氏は石清水八幡宮を制圧し、陣を布いた。
『九日、十日、於大渡橋抽軍忠畢』(建武三年三月日軍忠状・「大日本史料第六編之二」七七九頁)
“(私、戸次頼尊は)九日、十日は大渡橋の合戦に参加しました”
九日から、足利方は大渡橋を挟んで宮方と衝突した。両陣からさかんに遠矢が放たれる。
これは、既に摂津・河内まで迫っている細川定禅・赤松円心軍と呼応しての攻撃だった。
『明日十日午刻以前に山崎の京方を打破て煙を上べし』(梅松論)
“明日十日の正午前に、山崎から京に攻め入ります”
『同時に御合戰あるべし』
“将軍におかれましては、我等と同時に京に攻め込んでいただきたい”
そして約束の十日、細川・赤松軍は山崎の宮方を撃破し、久我鳥羽に攻め入った。
これに呼応し、大渡橋でも激戦が展開され、その際の火矢によって大渡橋は焼け落ちた。そのため、渡行が危ぶまれたが、足利方の野上資頼らが、焼け落ちた柱に乗って対岸の敵陣まで押し渡る奮戦ぶりを見せ、足利方は遂に渡行に成功した(野上文書)。
侵入した足利軍によって、京は火の海に包まれ、内裏をはじめとする主だった建物が灰燼に帰した。そのため、後醍醐天皇は、比叡山への避難を余儀なくされた。
その夜、比叡山へと向かう後醍醐天皇の輿に追い付き、何事かを奏上する武者がいた。
『今度官軍鎌倉近く責下て泰平を致すべき所に。さもあらずして天下如此成行事は。併大友左近將監が佐野にをいて心替りせし故也』
“こたび、官軍は鎌倉に迫り、天下を鎮めるところでした。しかし、そうはならず、天下がこのようになったのは、大友貞載が佐野において、足利に寝返ったからです”
『御暇を給て僞て降參して。大友と打違て死を以て忠を致すべし』
“ここでお暇を賜り、偽って足利に降服し、大友と刺し違え、もって忠を致します”
武者は、「龍顔を拝するのもこれが最後」と涙しながら、戦場に戻っていった。天皇も、
その後ろ姿に肩を震わせる。武者は、「三木一草」の一人、結城親光であった。
十一日、足利軍の入京によって、宮方は敗色が濃くなろうとしていた。大友貞載も東寺南大門に二百騎で陣取る。親光は、家来数人を連れてその陣に向かい、降服を願い出た。
親光が投降してきたと聞いた貞載は、ただ「そうか」とだけ言ってこれを受け入れ、尊氏の許しを得るため、共に連れだって本陣へと向かった。
本陣も近付いてきた樋口東洞院の小河で、貞載は親光に言った。
『法にて候。御具足を預り申さん』
“法である。ここで、貴殿の具足をお預かりしたい”
つまり、武装したままの降人を、将軍に会わせるわけにはいかないというのである。
『御片を頼奉るうへは。耻辱になさらぬようにはからひ給へ』
“大友殿をお頼りする上は、どうか恥辱にならぬよう、計らっていただきたい”
やむなく、親光は、具足を渡した。
しかし、太刀を手に持ち、河を西に渡った時、貞載は更に次の事を求めた。
『大友御對面の後可進』
“将軍との御対面の後、(お手のものは)大友がお返しします”
ここまでか。親光は限界を悟った。あわよくば、尊氏の本陣でひと暴れしたいところであったが。是非もなし。親光は、太刀を持つ手を握り締めた。
『馳竝て抜打に切間』
“親光は突恕駆け出して、貞載の横に並び、太刀を抜き打った”
親光の一閃は、貞載の目の上を、深く切りつけた。
しかし、貞載はひるまなかった。深手を負った身を庇うどころか、逆に親光に組み付いたのである。親光は、死力を振り絞る貞載に抑え込まれ、あえなく討ち取られた。
半死半生の貞載は、頭に鉢巻きをつけて輿で本陣に向かい、親光の首を持参した。そして、翌日亡くなった。かくして、「三木一草」の一本目が、失われたのである。
第一次京都争奪戦の前半、足利方は優位に戦いを進めた。このまま何事もなく戦いが推移したならば、尊氏は京を制圧しただろう。しかし、この後、流れが変わった。
十三日、北畠顕家軍が遂に東坂本に到着したのである。北畠軍は、はるばる奥州から、関東の足利方を蹂躙し、東海道を駆け抜け、前人未到の軍事行動を実現したのである。
『官軍大に力をえて、山門の衆徒までも万歳をよばひき』(神皇正統記)
“奥羽勢の到着に、官軍はおおいに力を得て、延暦寺の僧兵までも万歳と声を挙げた”
息子の到着に狂喜する北畠親房。これを機に宮方は態勢を立て直し、十六日、三井寺で激戦が展開された。細川勢はこれを支えきれず、後退し、戦場は三条河原へと移った。
まもなく、新田・北畠・楠木軍による一斉攻撃が始まった。中でも、復讐に燃える結城宗広勢の勢いは凄まじかったという。二十七日、足利方は桂川の西に後退した。その際、上杉憲房(尊氏・直義に「親父」と呼び慕われた)が敵を喰い止めるため、討死した。
三十日、足利軍は遂に丹波に敗走した。尊氏は痛恨の敗北をきしたのである。