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【その時歴史が動いた】

一三三五年十二月十二日、遂に宮方の大友貞載が足利方に寝返った。

『十二日、伊豆国佐野山に於いて御方に参じ、合戦忠』(狭間文書・山本「新田義貞」一八九頁)

“十二日、伊豆国の佐野山で御味方に参じ、ご奉公致しました”

宮方には、元々足利尊氏に好意的な武将が少なくない。そのため、情勢が変わったとみるや、躊躇なく足利に付いたのだろう。かくして、一度は宮方に寝返った諸将は、続々と足利陣営に戻り、足利方はまもなくその兵力を回復した。

これに焦った新田義貞は、箱根を退き上げ、尊氏を討ちに向かった。十三日、伊豆国府で両軍は衝突した。しかし、義貞はこの戦いに敗れ、一路京へと逃れていった。

尊氏は、この後、ようやく弟の軍勢と、無事合流を果たしたのである。


 十四日、足利尊氏と足利直義。“両大将”が揃ったところで、軍議が開かれた。

『是より兩将鎌倉に御帰有て關東を御沙汰有べきか』(梅松論)

“この後は、両大将には鎌倉に帰っていただき、関東の仕置をしていただくべきか”

『縱關東を全くし給ふとも。海道京都の合戰大事なり』

“いや、関東を治めていただく事よりも、海道京都の合戦の方が大事である”

『しかじただ一手にて御立有べし』

“ここは、一気に京に攻め上っていただこう”

こうして、足利軍は、一路京へ上る事になった。

 この軍議によって、その後の日本は決定付けられた。というのも、尊氏が関東に残らなかったため、後の室町幕府の本拠地が“西国”に置かれる事になったからである。

「京と鎌倉」ではなく、「京に全てが集まる時代」がまもなく始まるだろう。


だが、そこに至る道のりには、まだまだ困難が待ち受けているように見える。海道を進みながら、諸国の軍勢を吸収し、更には九州・中国地方を含めた諸国への軍勢催促を続ける足利軍の背後でi、見過ごし難い動きが起きていたからである。

二十二日、奥州。北畠顕家のもとに、大軍勢が集結していた。その指揮官は結城宗広、侍大将は結城親朝である。多賀国府を発する軍勢が向かう先は、足利軍の主力が展開する京周辺。尊氏が最も恐れていた東西からの挟撃が始まろうとしていた。

奥州から京への進軍は、常識で考えて不可能である。しかし、冬の雪国に集結したこの軍勢は、明らかに通常の軍とは異なる熱気を帯びていた。

この軍勢ならば、不可能を可能にするかもしれなかった。

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