【足利尊氏起つ】
一三三五年十一月二十二日、足利尊氏の気持ちも知らず、京では綸旨が下された。
『足利尊氏同直義已下の輩、反逆の企あるの間、誅罰せらる所なり』
(山本「新田義貞」一八五頁)
“足利尊氏・直義とその配下は反逆を企てている、これを討て”
この日、持明院統の花園上皇が出家している。また、同じ月に、兄後伏見法皇も法名を理覚から行覚に変えている。時期が時期なので、背景がありそうだ。
いずれにしろ、争乱の時代が再開されたのである。直義らは、尊氏の態度に業を煮やし、尊氏なしで新田軍の迎撃に出た。しかし、二十五日、三河で高師泰が敗れた。
翌二十六日、尊氏と直義の官位が剥奪された。これらへの報復として、十一月中に、四国で細川定禅、播磨で赤松円心も挙兵している。しかし、この時、新田義貞は強かった。
十二月五日、駿河手越河原で直義も敗れた。新田軍に寝返る者が続出した。
しかるに、「乱の首謀者」足利尊氏は、いまだ鎌倉浄光明寺に籠もっていた。
尊氏の苦悩。かつて、鎌倉幕府を倒した時、庶長子の竹丸が駿河で殺された。中先代の乱では、譜代の家臣を多く失った。今回の戦いでも、尊氏は何かを失うだろう。
しかし、弟らが敗退を重ねているという報が届き、尊氏は悩むのをやめた。
『箱根山にて相待す』(保暦間記)
“新田軍と足利軍は箱根山(鎌倉への最後の関門である)で睨み合っている”
このままでは、弟が死ぬ。
『守殿命を落されば我有ても無益なり』(梅松論)
“直義が命を落とせば、自分が生き延びて何になる”
八日朝、尊氏は俄かに山名時氏らを従え、戦場に向かった。
『竹ノ下を廻りて、京都の勢を中に取り籠んとす』(保暦間記)
“竹ノ下を廻り、征討軍の退路を断とうとした”
鎌倉から西へ行く進路は二つある。北の足柄山を越えて駿河に出る道と、南の箱根山を越えて伊豆に出る道である。尊氏が選んだのは北の進路だった。直義が(箱根山手前の)水呑で対陣している状況を逆手にとり、北の別道から敵の背後を突いたのである。
尊氏の出陣に宮方は動揺した。これに乗じた尊氏は、伊豆国府に向けて南下し、宮方を次々と撃破した。そして、この勝利が、箱根の宮方にますます揺さぶりをかけた。
尊氏の戦場への出現により、宮方と足利方の攻守は一挙に逆転した。