【矛盾のひと】
一三三五年十一月十九日、後醍醐天皇は、尊良親王を上将軍、新田義貞を大将軍として、関東に向けて征討軍を派遣した。
・東海道:尊良親王、新田義貞・脇屋義助、千葉貞胤・宇都宮公綱・大友貞載ら諸将
・東山道:大智院宮、洞院実世・堀川光継(貴族)、江田行義・大館氏義、島津氏ら諸将
(山本「新田義貞」一八五頁・峰岸「新田義貞」九九~一〇〇頁参照)
これを知った鎌倉の足利尊氏は、常識外れの行動に出た。
『政務を下御所に御ゆづり有』(梅松論)
“政務を直義に御譲りになった”
つまり、足利の当主の座を退いたのである。
『浄光寺に御座有し』
そうして、細川頼春ら僅かの近習だけを連れ、鎌倉浄光明寺に籠もってしまった。
足利尊氏という“一風変わった英雄”の行動は、本当に理解しがたい。そこまで、後醍醐天皇を慕うなら、是が非でも帰京すれば良かったではないか。あるいは、足利の当主として弟や家来達を慮ったなら、なぜ腰を据えて陣頭指揮を取ろうとしない。
これらの矛盾に満ちた行動こそ、後世の人が、尊氏を記す事をためらう所以である。
しかし、これらを矛盾のまま放置するのは、本書のような代物にとって余りに不都合である。ここで、「尊氏の思想」について一つの仮説を立てたい。
即ち、「足利尊氏とは“棲み分け”の発想をする人だったのではないか」。
現代は、皆が同じである代わりに“弱肉強食の時代”である。これに対し、尊氏の時代は、身分の違いがある代わりに、“棲み分けがなされた時代”であった。つまり、天皇・貴族・武士・百姓・非人・僧がそれぞれ異なる世界を生き、相手の世界を滅ぼそうとしなかった時代である。その善悪は、ここでは論じない。史実である。
尊氏は、おおらかな性格であったと伝わるが、その生涯で何度か激怒した事がある。
その際に共通するのは、「対象となる人物が、己の役割を根本から否定する真似をした」という事である。そして、そのような時、尊氏は政治状況すらも無視する。
尊氏は、そういう価値観を持ったからこそ、後醍醐天皇や夢想疎石を素朴に敬った。将軍の役割とは関係のない事柄に口を出し、その領分を侵す事を好まなかったのである。
そして、これこそが尊氏の弱点だった。棲み分けを容認する尊氏は、それぞれの立場の者の利害が対立した時、その調整をするのが本質的に苦手だったのである。