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【前夜】

一三三五年十月十五日、足利尊氏は鎌倉の旧将軍邸跡に御所を設けた。

これは、京には帰還しないという意志を内外に示すものだった。

これを察知した京の後醍醐天皇は、閏十月七日、関東に対する調伏を行なった。

両陣営は、開戦へと歩みを始めたのである。


しかし、現実はそんなに手際の良いものではなく、この間足利陣営を引っ張っていたのは弟の直義だった。尊氏は、というと、日に日に活力を失っていた。

 自分を建武政権から離脱させようとする弟達を眺めながら、尊氏はひとりつぶやく。

『我龍顔に昵近し奉りて。勅命を請て恩言といひ。ゑいりょといひ。いつの世いつのときなりとも』(梅松論)

“後醍醐天皇には昵懇にしていただいた。勅命をいただき、御言葉をいただき、御志をいただいた。いかなる世、いかなる時であっても、忘れはせぬ”

『今度の事條々御所存にあらず』

“こたびの事は、本意ではない”

救い難い事に、それが尊氏の本心である。

 かつて、北条一門が天下を握っていた頃、足利の当主達は、常に身の危険を感じながら

生きてきた。祖父家時は政争に巻き込まれて自害した。父貞氏は得宗の顔色を窺う日常に

疲れ、狂気にとりつかれた。そんな足利を救ったのは、まぎれもなく後醍醐天皇だった。


十一月二日、足利直義の名で、新田義貞追討の檄文が諸国に発された。

『可被誅伐新田右衛門佐義貞也、相催一族可馳参之状如件』

(結城白河文書・山本「新田義貞」一八一頁)

“新田義貞を討つ。一族を催して馳せ参じよ”

十二日、足利の動きに対抗して、後醍醐は北畠顕家を鎮守府将軍に任命した。これによって、顕家は名実共に奥羽の統括者となったのである。同時に、重大な指令が下された。

『奥州より顕家卿、後迫に攻め上るべき由、宣下せられけり』(保暦間記)

“北畠顕家に、奥州から背後をついて攻め上がるよう宣下した”

西から新田義貞。東から北畠顕家。成功すれば理想的な挟撃作戦である。尊氏は戦慄した。この戦略的不利は、政治をもってしか覆せない。尊氏は、後醍醐天皇に対して最後の外交交渉を行なった。それが、十八日の「新田義貞追討の命の要請」である。

しかし、後醍醐はこれを最後通牒と捉え、足利との対決を決意してしまった。

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