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【閉ざされた途】

一三三五年の中先代の乱で、後醍醐天皇は改めて足利尊氏の力を見せつけられた。後醍醐は尊氏の行動に憤りつつも、その功績をたたえ、八月三十日、尊氏を従二位に叙した。

間もなく、勅使として中院具光が鎌倉に下され、帝の意が伝えられた。

『今度東國の逆浪速にせいひつする事叡感再三也』(梅松論)

“こたびの逆賊の討伐について、帝もしきりに感じ入っておられる”

『但軍兵の賞にをいては京都にをいて綸旨を以宛行べきなり』

“但し、軍の報償については、京において帝が沙汰すべきである”

『先早々に歸洛あるべし』

“まずは早々に、京へ帰還するように”

しかし、既に尊氏は、功を挙げた者に対し、恩賞を与えている。しかも、同じ三十日には、斯波家長を奥州管領に任じている。奥州には、北畠顕家がいるわけだから、これは建武政権に対する挑戦だった。尊氏の本心はいずこにあったのだろうか。


尊氏の望みは、後醍醐天皇の下で征夷大将軍となり、幕府を開く事である。

これは、北条時行のような輩を抑えるため、必要な事であった。

尊氏に朝廷を傾ける気などない。

尊氏の望むところは、かつて源頼朝が後白河法皇と行なったような「交渉」だった。

しかし、頼朝の時とは異なる要素が、ここにある。それは“護良親王の殺害”だった。後醍醐は、親王を手に掛けた足利を、放置する訳にはいかなかったのである。

『尊氏謀叛の志有る由讒』(保暦間記)

“尊氏に叛意ありとする讒言があった”

現に、政権内で足利の排除を望む声は小さくない。後醍醐天皇は、これらを鑑みて、尊氏に一刻も早い帰京を命じたのである。


当初、尊氏は命に応じようとした。しかし、次の報せが、懇意の貴族から密かに届いた。

『上洛せば道にて打つべき由を義貞に仰す』

“(帝は、)尊氏卿が上洛に応じたら、道中で抹殺するよう、新田義貞に命を下した”

この密告は、持明院統の貴族(日野家)がしたものと思われるが、明らかに尊氏を煽っている。真義はともかく、これによって、関係修復の道は閉ざされた。

意気消沈する尊氏を叱咤したのは、弟直義だった。直義は、この際、建武政権から離脱し、東国に「武家政権」を再興する事を、兄に強く勧めたのである。

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