【私にあらず】
一三三五年七月末、鎌倉陥落の報は、諸国に伝わった。
『京都の騒動なのめならず』(保暦間記)
奥州の北畠親房も、事態収拾のため、急遽京へ帰還している(関城書)。そのため、奥羽は顕家の手に委ねられた。顕家十七歳は、ここに、独り立ちしたのである。
京では、足利尊氏が、後醍醐天皇に出陣の許可を求めていた。
『直義朝臣無勢にしてふせぎ戰ふべき智略なきに依て。海道に引退きし其聞え有上は。いとまを給ひて合力を加べき』(梅松論)
“直義には劣勢を覆す智略もございません。西に退いたと伝わっている以上、いとまをいただき、これに合力したく存じます”
その上で、時行を討伐し、速やかに天下を鎮めるため、次の事を奏上した。
『征夷将軍の宣旨を蒙んと申す』(保暦間記)
“征夷大将軍の宣旨を賜わりたい”
尊氏が考えるに、反乱がここまで拡大したのは、建武政権が武士の不満を吸収できなかったからである。足利が、いま受け皿とならねば、時が逆流しかねなかった。
しかし、後醍醐天皇は、八月一日、鎌倉から戻った成良親王を征夷大将軍とした。
尊氏は、後醍醐天皇の最も忠実な臣下である。だが、その前に武家の棟梁であった。
その事について、尊氏自身が内心どう考えようと関係ない。天下のための決断は、自らの意思を超えて行なうべし。尊氏は、敢えて、帝の意に背かなければならなかった。
二日、足利尊氏は佐々木導誉らを従え、勅許なしで出陣し、直義のいる三河へ向かった。
『所詮私にあらず。天下の御為』(梅松論)
“しょせん私にあらず。天下のおんためである”
尊氏の決意は、天をも味方に付けた。四日、鎌倉の時行軍を、突如台風が襲った。
『八月四日夜、大風俄起、大木抜根底、仍当寺忽顛倒』(高幡不動金剛寺蔵不動明王火焔背銘、「歴史における自然災害―建武二年八月、関東南部を直撃した台風―」七〇頁)
“八月四日夜、台風がにわかに発生し、大木を根から引き抜き、寺を倒壊させた”
時行軍は見事に出鼻を挫かれ、無理やり出陣した末に、次々と尊氏に敗れた。その数は七度に及んだという。破竹の勢いに乗る足利軍は、十九日に鎌倉を奪回し、諏訪頼重ら主だった武将を自害に追い込んだ。乱の首謀者時行は、いずこかに姿を消した。
同じ日、加賀でも名越時兼が討たれた。乱平定の功労者は、間違いなく尊氏だった。