【中先代の乱】
一三三五年一月末、楠木正成らが、ようやく紀伊の反乱を鎮めて京に帰還した。
そして、二月十六日、吉田定房が内大臣を辞した。こうなると、定房の内大臣就任は、護良親王の失脚に伴う、混乱のまとめ役を押し付けるためだったという観さえある。
しかし、この年になっても、地方の反乱はやまなかった。
『①公家と武家の軋轢 ②後醍醐天皇と貴族のすれ違い ③地方の混乱』
建武元年に明らかとなった、建武政権の弱点は、一向に改善されなかったのである。
一説によると、建武政権の改革は、いずれも室町幕府三代将軍足利義満の政策を先取りしたものだったという。だが、古今「正しいだけの政治改革」が成功した例などない。
六月十七日、西園寺公宗の弟公重の密告によって、大掛かりな陰謀が露見した。
『武士多馳集持明院殿、被奉移院於京極殿云々』(小槻匡遠記i)
“多数の武士が持明院殿に馳せ集まり、(後伏見)院を京極殿にお移しした”
二十二日、陰謀に加担した者達が、次々と拘束された。
『今日西園寺大納言公宗卿・日野中納言入道資名卿父子三人被召置云々』
“今日、西園寺公宗卿・日野資名卿(と日野氏光)父子、三人が召し置かれた”
『於建仁寺前召捕隱謀輩了、正成・師直相向云々』
“建仁寺の前でも陰謀の輩が捕縛された。(その際には)楠木正成・高師直が出動した”
二十六日に発された宣旨に曰く。
『奉太上天皇旨、謀危國家』
“(公宗らは持明院統の)院を奉じ、国家の転覆を企てた”
『資名法師乍知子息氏光陰謀與同意、不告官司』
“日野資名は子息氏光の陰謀を知りながら、これに同意し、朝廷に陰謀を届け出なかった”
八月二日、西園寺公宗・日野氏光・三善文衡が斬首に処された。
『うけ給おこなふ輩のあやまりなりとぞきこえし。』(神皇正統記)
“(帝にそのつもりはなく、)係りの者が、誤って処刑してしまったと聞く”
そんな訳があるか。
朝廷で、権大納言以上の者が死罪となるのは、かの「平治の乱」以来だった。
問題は、持明院統の面々がこれにどう関与したのか、である。
これより後の一三四五年、光厳上皇は広義門院の新御所に御幸した。
その際、上皇は、公宗の未亡人日野名子(資名の娘)と“出くわしている”。
『わびしけれども、退く方なきに、わざとも見参とるべうの給はすれば』(竹むきが記)
“(謀反人の妻の身で、その座にいるのが)心苦しくてなりませんでしたが、退座する訳にもいかずいるところ、院がたって話をしたいとおっしゃるので(対面しました)”
『いままでいぶせかりつるについでうれしう』
“今まで、(そなたがどうしているか)気掛かりであったが、遇えて嬉しい”
だが、事件後の両者の対面は、これがはじめてではない。
光厳上皇は、何かと西園寺の未亡人に気をかけ、北山第(西園寺邸)を度々訪れている。
この日の対面は、周囲に名子(国家反逆者の妻)を認めさせるための一芝居であった。
但し、判断に困る事に、対面を終えて「達者でな」と出ていく上皇のうしろには、
『竹林院殿御供に勤め給ふ』
“西園寺公重殿が、御供を勤めておられた”
何とも理解しがたい。手が出せない「事情」でもあったのか。それとも、これは公家社会独特の復讐で、「この一芝居を見せつけるため、わざわざ供に付けた」のだろうか。
さて、京の陰謀は露見したが、企ては終わらなかった。七月、信濃で北条時行(高時の遺児)が諏訪頼重・時継に擁立されて挙兵した。更に、越中でも名越時兼が挙兵した。
十四日、信濃国北部、千曲川ほとり。要は川中島周辺。保科弥三郎・四宮左衛門太郎ら率いる軍勢が、時行の挙兵に呼応して、青沼(千曲川の東)を襲撃した。
しかし、守護小笠原貞宗に撃退された。保科・四宮勢は、千曲川を渡って西岸へ逃げていく。守護方市河助房らも、千曲川を渡り、篠井河原・四宮河原で合戦した。
『毎度馳渡千熊河』(建武二年七月付市河助房等着到状ii)
“その度に、千曲川を渡りました”
助房がこう言っている以上、少なくとも青沼から追い落とす時に一回、その後、篠井河原・四宮河原で戦う時にもう一回。という風に、千曲川を渡った事になる。
これは、一度青沼で壊走した筈の敵が、千曲川の西で軍を立て直した事を意味する。
何か、おかしい。しかし、敵は目の前にいる、戦わなければならなかった。
十五日は、八幡河原で戦った。その後も戦場は移り、南の福井河原(千曲川東岸)では、助房は馬から切り落とされ、危ういところを倫房(一族)の矢に助けられた。
二十二日、気が付けば、戦いは九日目に突入していた。数では劣る保科・四宮勢の奮戦ぶり。敵ながら天晴れ。いや、変ではないか。などといぶかしむ守護方に急報が届いた。
それは、「府中(国府)陥落の報」であった。
保科・四宮勢は陽動だった。信濃北方で暴れに暴れ、守護方の軍勢を引きつける間に、北条時行率いる本軍が、がら空きになった南の国府を制圧したのである。
こうして、信濃は再び北条の手に帰した。
時行軍は、直ちに上野へと進撃した。各地に逼塞していた北条残党が、時行軍に合流していく。軍勢はたちまち万を超えた。今こそ鎌倉奪回の好機。時行軍は、上野国新田荘に住む新田一族に報復した後、鎌倉への南下を開始した。そして、武蔵の女影原で足利方の渋川義季・岩松経家、小手指原で今川範満、更に府中で小山秀朝を敗死させた。
二十三日iii、自ら迎撃に向かった足利直義も、井出沢で敗れ、鎌倉に退いた。
もはや、時行軍を防ぐ術はなかった。
この時、鎌倉には護良親王が幽閉されていた。征夷大将軍の位を剥奪されたとはいえ、親王である。時行が、親王を奉じた場合、鎌倉幕府が再興される恐れがあった。
直義は、暫く何事かを考えていたが、やがて意を決した様子で指示を出した。
『親王本より野心御座ければ、伴し奉るにおよばず、奉討ちけり』(保暦間記)
“護良親王は野心をお持ちの方なので、鎌倉からはお連れせず、お命を縮めた”
『御骸をだにも取り隠したてまつる人も無かりき』
“親王の遺体は埋葬されることもなく、そのまま討ち捨てられた”
後年、直義は、法勝寺の恵珍上人から執筆中の『太平記』三十余巻の提出を受ける事があった。その内容に目を通した、直義曰く。
『是は且見及ぶ中にも以の外ちがひおほし』(難太平記)
“この本は、少し見ただけでも、もってのほかの間違いが多い”
『追て書入。又切出すべき事等有。其程不可有外聞』
“書き加え、削除すべき個所もある。それまで、人に見せてはならない”
そう言って、“事実と異なる”箇所の修正を命じた。しかし、今日に伝わる『太平記』には、直義が親王殺害を指示した話が残されている。直義は、自らの汚点となる出来事を歴史から抹殺しなかった。兄尊氏の手が汚れなければ、それで良いと云わんばかりに。
二十四日、時行軍は、佐竹貞義を武蔵国鶴見で破り、鎌倉入りした。
直義は、成良親王と義詮(千寿王)を連れ、足利の拠点、三河国矢作に遁走した。
三河は、東国の西境である。これ以上は退けぬ。直義は、敢えてこの地に踏み留まり、成良親王を京に帰した。そして、兄尊氏に救援を求めたのである。