【建武元年冬】
一三三四年十月九日、(権中納言を辞職していた)四条隆資が修理大夫に任じられた。
これは、まもなく起こる失脚劇のためだった。
二十二日、護良親王が、参内したところを、結城親光・名和長年に拘束された。
『南部工藤を初として數十人召預けられける』(梅松論)
“南部・工藤をはじめとして、数十人が召し捕られた”
この時、従う武士は、北畠父子が奥州から派遣した者達くらいだったというi。
四条隆貞(隆資の子)と浄俊(日野資朝の弟)も捕えられた。しかし、彼らは、他に行き場のない者達である。行き場のある四条隆資は、身を保障されて親王を見捨てた。
赤松円心も、播磨の守護職を解任された。しかし、命や所領までは取られていない。
すでに親王とは、ある程度の距離を置いていたのだろう。
そして、楠木正成は都にいなかった。この月、紀伊で六十谷定尚が佐々目僧正某(金沢一族)を奉じて反乱を起こしている。検非違使(京防衛が職務の)正成は、何故かその討伐に出ていた。この転落劇では、後醍醐天皇の冷徹な計算が随所に見え隠れする。
親王に、一体何の咎があったというのか。
『宮の御謀叛眞實はゑいりょにてありしかども。御科を宮にゆづり給ひしかば』
“親王の足利への敵対行動は、実は帝の御意思であったが、罪は親王にかぶせられた”
『十一月親王をば細川陸奥守顕氏請取奉りて。関東へ御下向あり』
“十一月、細川顕氏が親王の身柄を引き取り、関東にお連れした”
親王は、足利直義が治める鎌倉に流され、東光寺に幽閉されたのである。
『武家よりも君のうらめしく渡らせ給ふ』
“武家よりも、帝がうらめしい”
幽閉先で、親王はそう吐き捨てたという。
十二月、北畠顕家が、陸奥・出羽を鎮めた功を評価され、従二位に叙された。
十七日、中央八省の卿が一斉に交代した。その人事は驚くべきものだった。
「兵部卿:二条道平 治部卿:鷹司冬教 刑部卿:久我長通 式部卿:洞院公賢
民部卿:吉田定房 宮内卿:三条実忠 中務卿:三条実治 大蔵卿:九条公明」
八省の長官は、本来ならば中級貴族が務める職である。
いきなり実務の場に放り出された公卿達は、これを「物狂いの沙汰」と陰口した。
二十八日、二階堂道薀が六条河原で処刑された。陰謀を画策したのだという。