【建武元年夏・秋】
一三三四年五月、諸国の一宮・二宮(有力神社)が、本家・領家職を停められた。
これによって、出雲・阿蘇神社などが、独立した地位を認められ、所領を回復した。
寺社は朝廷を支えている。だから、その復興は、この時期の政策にしては理にかなっている。玉石混合の政権で、良臣の意見が用いられ始めたのだろうか。
六月二十六日、政権の良心、吉田定房が准大臣に任じられた。准大臣とは、家格(家の地位)のせいで大臣になれない貴族に対し、特別に与えられる職である。後醍醐天皇は、仲違いしていた老臣と(【老臣との別れ】参照)、ようやく和解を果たしたのである。
しかし、定房のような老臣は、情勢が揺らぐ前に活躍させるべき人だった。
『兵部卿護良親王。新田金吾義貞。正成。長年。潜にゑいりょを請て打立事度々』(梅松論)
“護良親王・新田義貞・正成・長年が、密かに帝の命を受け、不穏な動きを見せた”
事態は、既に「武力の段階」だった。目的は、足利尊氏の抹殺だったという。
「帝の命」が本当かは分からないが、政権は疑心暗鬼に陥っていたらしい。
六月七日、“護良親王が尊氏を討とうとしている”という噂が流れた。
『武将の御勢御所の四面を警固し奉り。餘の軍勢は二條大路充滿しける』
“諸将は(将軍の)御所を四方から警固し、余った軍勢が二条大路に充満した”
尊氏に対する諸将の強力な支持を目の当たりにした親王は、やむなく討伐を諦めたという。この時期、既に多くの武士は、建武政権への不信を固めていたのである。
七月、南九州と越後でも反乱が起きた。九日、万里小路宣房が大納言を辞め、従一位に叙された(七十六歳)。八月、武蔵で江戸氏・葛西氏が反乱を起こした。
結束した武士団の扱いを誤れば、政権を崩壊させる引き金ともなりかねない。
この月、雑訴決断所の組織が改められ、多くの武士が政権に招かれた(建武年間記)。
しかし、政権内で、武家の発言力が強まっただけであった。
九月九日、吉田定房が内大臣に任じられた。
『言語絶了、可察心中云々』(玉英記抄i)
“感激のあまり言葉もありません。心中、お察し下され”
この人事は、かつて後宇多法皇が六条有房に行なった人事を彷彿させる(【道を知る人】参照)。後醍醐は、御年六十歳の老公卿を、股肱の臣と内外に示したのである。
十月五日、万里小路藤房(宣房の子)が政権を去り、行方が分からなくなった。
藤房は旧討幕派の人物である。穏健派の台頭で、居場所を失ったようだ。