【建武元年春】
一三三三年十二月、光厳院が太上天皇(上皇)の尊号を受けた。建武政権は、光厳天皇
の治世を否定していたが(【建武の新政】参照)、ようやく扱いが決まったのである。
翌一三三四年一月二十三日、恒良親王(阿野廉子の子)が皇太子となった。
二十九日には、元号が「建武」に改められた。
したがって、建武政権は、この時期に完成したといえる。
だが、「建武元年」は、建武政権が限界を晒す年となった。この年一月から、各地で北
条残党が蜂起している。代表的なのが、筑後で元肥後守護の規矩高政・糸田貞義が起こした反乱である。一月に起きた反乱が、ようやく鎮められたのは、七月の事だった。
同じ時期、鎌倉に着任した足利直義は、鎌倉将軍府の整備に追われている。
岩松経家(新田一族だが足利に従う)・上杉憲顕(憲房の子)らを奉行人として、廟番(実務をする)が編成された。構成員の中には、相馬高胤など奥州武士の名も見られるi。
『東国の武士、多くは奥州に下る』(保暦間記)
“(直義が来るまでの間に)東国武士で、奥州(多賀国府)に下る者も多かった”
組織の整備が遅れれば、多賀国府に人材を奪われる。鎌倉将軍府と多賀国府は、水面下で、激しく火花を散らせていたのである
三月、北条残党の本間氏・渋谷氏が武蔵で挙兵し、その鎌倉に攻め込んだ。その勢いは激しく、反乱軍は一時鎌倉に突入した。しかし、直義は何とか両氏を敗死させた。
この事件は、京を動揺させ、旧幕府から政権に参加した人々に対する猜疑を産んだ。
『或は降参、或は所々に隠居したりけるを、皆取出で同日首を刎られけり』
“降参・隠居していた北条一族が捕えられ、首をはねられた”
十七日、「諸国の検注(課税のための荘園調査)」について、勅令が下された。
この検注は、内裏造営の資金を集めるためだった、といわれている。
『兩年閣其節諸國諸莊園檢注事』(建武年間記)
“今後両年、(予定されていた)諸国の荘園での検注はさしおく”
『民庶猶勞云々』
“民の疲労を考えてのことである”
だが、停止が決まった筈の検注は、この年十月に、実施された記録が残っている。
二十八日、「乾坤通宝」発行(通貨発行)の詔が下された。しかし、建武政権で通貨が発行された史実など、ない。後醍醐天皇の空回りは、果てしなく続いていた。