【多賀国府と鎌倉将軍府】
一三三三年末から、国司北畠顕家と「政治顧問」親房による、多賀国府の本格的な運営が始まった。北畠父子には、後醍醐天皇から強力な権限が与えられているi。
『陸奥国には直勅裁を閣く』
(「建武政権下の陸奥国府に関する一考察」二六九頁、『大日本史料』第六編七、興国三年五月六日条、結城古文書写)
“陸奥国については、中央政府に伺いをたてず、政務をしてよい”
鎌倉時代、奥州は北条の支配下にあったため、北条と共に滅んだ御内人の所領(持ち主のない欠所地)が多い。また建武政権に反抗的な者も少なくない。
そのため、このような権限が認められたのである。
統治組織は急速に整えられた。現地の庶子系武士や吏僚系武士が現地奉行に抜擢され、土地調査・安堵が次々と行なわれていく。一三三四年一月には、現地の有力者である結城宗広・南部師行・伊達行朝らが評定衆に任命された。
多賀国府による統治は、時に強固な抵抗に遭いながらも、概ね成功を収めた。それは、国司顕家が現地の武士達の要望に上手く応えたからである。
与うべき者に力を与える。膨大な欠所地は、当初は結城・伊達・南部・二階堂といった国府の有力者に優先的に与えられ、現地奉行の活躍が必要となった一三三五年には、奉行らに優先的に配分されるようになった。こうした中、現地奉行は次第に地歩を固め、警察権を認められるようになり、奥州内で独自の武士団を形成していった。
これらの成果は、日本史上重大な意味を持つ。なぜなら、源頼朝の奥州征伐以来、実に百四十年にわたり関東の支配を受けた奥州武士団が、遂に独立を達成したからである。
『捧関東下知以下証状、雖支申、不帯綸旨国宣者、不可許容』
(「建武政権下の陸奥国府に関する一考察」二八二頁、南部「岩手県中世文書」一二一)
“関東から発給された証書を持っていても、綸旨または国宣がなければ、認めない”
陸奥の事は陸奥の民が決める。関東からの指図は受けない。それは、鎌倉時代に関東武
士の下で代官をさせられた奥州武士の、長年の願いでもあった。
多賀国府の統治が受け入れられた背景には、この“願い”があったのである。
したがって、多賀国府の活動は、関東にとって脅威だった。鎌倉を抑える足利はこれに
対抗する必要に迫られたのである。一三三三年末頃、足利は、後醍醐に対し、関東にも皇
子を貰い受けたいと懇願した。そこで、十二月二十四日、成良親王が下され、相模守足利
直義(尊氏の弟)がこれを奉じて鎌倉に下向した。これが鎌倉将軍府である。