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【北畠父子の出立】

一三三三年十月二十日、北畠親房・顕家父子が多賀国府に向けて出立した。

多賀国府は陸奥国に設置された朝廷の役所である。かつて北条氏の拠点だった奥州を掌握する事が目的だった。この地で安東氏が内紛を起こし、蝦夷も巻き込んだ大乱に発展した事は記憶に新しい(【儒学奨励と蝦夷蜂起】参照)。建武政権の成立後も、この地は安定していなかった。津軽で北条残党が反乱を起こし、それに乗じて安東氏が不穏な動きを見せたからである。「津軽合戦」と呼ばれる戦いは、この年の末まで続いた。


後醍醐天皇は奥州の安定を重視し、八月に北畠顕家を陸奥の国司に抜擢している。

これは、顕家個人の資質もさることながら、父親房の手腕に期待しての人事だった。

親房に現地を掌握させる。後醍醐の真意はこれであり、だからこそ、まもなく北畠父子に、国司として現地に赴くよう、要請がなされたのであった。

しかし、ここで疑問が浮かぶ。ならば“何故親房に地位を与えない”。それは、親房の複雑な立場によるところが大きい。そもそも、北畠親房は故後宇多法皇に学才を買われて登用され、後醍醐天皇からも「後の三房」の一人として重用された人物である。

一三二三年には「源氏長者(筆頭)」となっている。北畠家は、村上源氏の中でも極官(その家に認められる最高の官)が大納言に過ぎない家で、良く言って「上の下」の貴族だった。にもかかわらず、堀川・久我・土御門・中院といった大臣を輩出できる同族をさしおいて氏長者になったのだから、親房は有能だったのだろう。

『対于入道、及種々懇望、以別可被優恕』(「一品記」・「鎌倉・南北朝期の源氏長者」二〇~二一頁)

“親房を源氏長者にと望む声が(村上源氏内で)強かったので、特別に認められた”

後年、「南朝の柱石」となった親房は、藤原氏に対して強烈な敵愾心を燃やし、あるいは清和源氏の足利に対して憎悪に近い感情を見せる。

それも、源氏長者を務めたという自尊心によるところが大きかったと思われる。


そんな親房ではあるが、後醍醐天皇の討幕運動には参加していない。

一三三〇年九月に、傅役を務めていた世良親王が亡くなり、政治を離れていたからである(【老臣との別れ】参照)。“その結果として”、討幕運動からは距離を置いていた。

北畠親房という貴族の厄介なところは、この行動が「どこまで本気だったのか」という点である。親王の死に悲観したのは本当だろう。しかし、討幕運動に関らなかったのは、宮方が不利と判断したからではないか。現に、元弘の変で後醍醐が敗れて持明院統の治世になった時、親房の子顕家は、持明院統から官位を返されていた。

「後醍醐天皇と北畠親房」の関係は複雑だった。今回の「平安以来、絶えて久しい国司の現地赴任」も、“古例の復活”とは聞こえが良いが、ていの良い左遷にも見えた。

そのため、親房は、当初後醍醐の命に乗り気ではなかった。

『武勇の芸にもたづさはらぬことなれば、たびたびいなみ申し』(神皇正統記)

“北畠家は、武勇に携わる家でもないので、たびたび断った”

しかし、後醍醐は、「公家が天下を治めるいま、もはや文の家・武の家の区別などない。昔の朝廷では親王や大臣の子孫が将軍を務めたではないか」と親房の言を入れなかった。

『今より武をかねて蕃屏たるべし』

“今からは、武を兼ねて、朝廷の支柱となるべし”

後醍醐は、奥羽に守護を設置しなかった。この姿勢に、親房は多賀国府行きを受けた。


 後醍醐天皇の真意は分からない。しかし、北畠父子に対して、誠意は示された。

『御みづから旗の銘をかかしめ給ひ』

“自ら旗の銘をお書きになり、それを下さった”

そのほか、武具・衣・馬。御前での勅語。

与うる限りのものが、父子に与えられた。極め付きはこれであろう。

『御子を一所ともなひたてまつる』

“皇子の義良親王を伴い、奥州に赴任した”

奥州統治の柱として、皇子を一人預けたのである。この親王は、寵姫阿野廉子が産んだ子であった。親王が手元にある限り、北畠父子の身は保障されるであろう。

遠国に赴任する北畠父子にとっては、この上ない「保険」だった。


この赴任に関し、触れるべき事実がもう一つある。北畠親房は護良親王と姻戚関係を持

っていた。しかし、今回の人事で、表立って親王に同情的な動きが取りにくくなった。

『近日或帯宮之令旨、或称国司守護被官、或又地下沙汰人以下、任雅意、有濫妨事』

(結城文書元弘三年十月五日陸奥国国宣幷事書案・「建武政権試論」一六頁)

“近日、護良親王の令旨を帯び、あるいは国司・守護の家来をかたり、あるいは地下沙汰人以下、勝手に乱暴を働く者が出ている”

これは、赴任前の顕家が結城宗広に送った書状であるが、早くも護良親王の令旨を受け

た連中に対する取り締まりが指示されている。父子には立場ができてしまった。

しかし親房は、その陰で、南部・工藤氏を親王のもとに送っている。せめてもの配慮だ

ったのだろうか。ともあれ、北畠父子は、十一月二十九日に多賀国府に着任した。

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