【尊氏なし】
一三三三年八月下旬~九月上旬、建武政権で最も特徴的な機関が誕生した。
雑訴決断所である。決断所には独自の裁決権が与えられた。これによって、後醍醐天皇に代わり、この機関が所領安堵を行なうようになった。七月に「所領の現状維持」の大方針を示し(【七月宣旨】参照)、八月に功臣への恩賞(国司・守護人事)が完了した今、いよいよ政権を挙げて所領問題に取り組むべき時期が到来したのである。
奉行職を担ったのは、公武の有力者だった。吉田定房・万里小路藤房・四条隆資・楠木正成。あるいは、佐々木道誉・二階堂道薀。更には、足利尊氏の家臣高師直・上杉憲顕。後醍醐は、所領問題を解決するため、万全を期したのだろう。
『縱雖賜綸旨、未帶當所牒状者、相觸子細於國奉行、可被書入彼目六』(建武年間記)
“帝から綸旨を得ていても、決断所の書類を揃えていない場合は、届け出る事”
『又無牒者、不可遵行之』
“書類がない場合には、(所領などに対する)実力行使も認めない”
しかしながら、この役割がどこまで守られたかは疑わしい。確かに、「書類を下さい」と真面目に申告をしてきた例も残っているi。だが、こんな記述がある。
『此條々不被施行之、訴人違於歟、不可説々々々』
“この規定が実行されていない。訴訟人が守ろうとしないのだろうか。けしからん”
『記録所決斷所ををかるるといへども。近臣臨時に内奏を經て非議を申斷間。綸言朝に變じ暮に改りしほどに諸人の浮沈掌を返すがごとし』(梅松論)
“帝は記録所・雑訴決断所を設置されたが、側近達は、これらの機関に諮らず(恩賞・安堵について)内密で帝に奏上した。そのため、帝の裁決は、朝に変わり夕に改まった。そのたびに、諸人の立場は手のひらを返すように変わった”
後に北畠顕家は、女官や僧侶が「政治を汚した」と弾劾している(北畠顕家奏状)。
どれほど優れた制度であっても、それが守られなければ意味がない。
こうした不始末が続く中、一部の公家は、好んで次の言葉を口にするようになった。
『尊氏なし』(梅松論)
“どうして、(武家を統括する)尊氏は発言しない”
十月、皇后西園寺禧子が、静かに生涯を終えた。
また、この月に武者所が設置され、新田一族が配されたii。
これによって、新田一族は、内裏の警護を職務とするようになった。