【公家の御世、武士の世】
一三三三年七月下旬、足利一党に恩賞が与えられた。足利高氏に武蔵の守護職・二十九ヵ所の地頭職、弟直義に十四ヵ所の地頭職。これらは、余りにも莫大な恩賞だった。
八月五日、国司人事がはじまった。西園寺家の伊予・持明院統の播磨・中院家の上野など、今まで一つの家が相伝してきた知行国が没収され、国司が充てられた。
この日、従三位となった高氏は、武蔵守に補されている。鎌倉を任されたのである。
更に、高氏は、名を「尊氏」と改めた。後醍醐天皇の御名、「尊治」から一字を賜わったのである。尊氏は、感激のあまり、生涯この名を改めなかった。
『公家の御世にかへりぬるかとおもひしに中なか猶武士の世に成ぬる』(神皇正統記)
“公家の世に戻ったと思っていたが、却ってますます武士の世となった”
後醍醐天皇による、足利の厚遇を、後に北畠親房はそう述懐する。
何故こうなったのか。政権の重鎮は、「後の三房」、吉田定房・萬里小路宣房・北畠親房である。しかし、彼らとは行き違いがあった。生き残る討幕派は、次の連中くらいである。
・護良親王派:四条隆資、四条隆貞(隆資の子)、赤松円心
・三木一草:楠木正成(くすの「き」)、名和長年(ほう「き」のかみ)、
結城親光(ゆう「き」)、千種忠顕(ち「ぐさ」)
このうち、結城親光は、奥州・北関東に勢力をもつ結城宗広の二男である。
討幕時には、父宗広が鎌倉攻略に、親光自身は六波羅攻略に参加していた。
『愚息親朝・親光幷舎弟祐義広尭等及熱田伯耆七郎等、於京都鎌倉奥州抽随分之軍忠』
(「伊勢結城文書」元弘三年五月九日結城宗広請文案・「福島県史」七・三六八~三六九頁、
「建武政権における足利尊氏の立場」四〇頁)
“(私、結城宗広が高時法師を討った時には、)愚息親朝・親光、弟の片見祐義・田嶋広尭、それと熱田伯耆七郎らが、それぞれ京・鎌倉・奥州で随分奉公したものです“
この功で、分家だった白河結城は、鶴の一声で「結城の総領」となった(白川文書)。
とはいえ、結城などは、幕府倒壊の直前に宮方についた連中である。
これに、寵姫阿野廉子、文観、洞院公賢を加えれば、実力者はほぼ揃ってしまう。
そこで、全土を統治するため、見境なく人材が求められた。まず、討幕を傍観していた貴族。更には、各国に国司と守護が併置され、旧幕府の人材までが政権で用いられた。
伊賀兼光や二階堂道薀。これらは、御家人制度の廃止によって可能となった。
そして、これに伴い、九月初頭までに護良親王が征夷大将軍職を剥奪された。