眠れない夜
夜が更けても、厨房の片づけがまだ残っていた。
今夜の客はガルド一人で、ミラはとうに奥へ下がっている。宿のなかは、もう物音ひとつしなかった。湯のみを布巾で拭いて、棚に伏せていく。最後の一つを拭いた。
布巾を置いて廊下へ出ると、客室の戸の下から灯りの線が漏れていた。さっき部屋に下がったときから、その灯りはずっと消えないままだった。
初夏とはいえ、夜更けの空気はまだひんやりしている。板の間の冷たさが足の裏から伝わってきた。
物音はしない。人が動く気配もない。
何かあったのかと、聞くつもりはなかった。そういうことに、こちらから踏み込むのは違う。ホテルにも、夜通し灯りを消せない客がいた。今夜も、温かいものを一杯だけ用意する。
厨房に戻って、小さな鍋に湯を沸かす。沸ききる手前で火を止めて、蜂蜜をひとさじ落とした。木の匙でゆっくり回すと、底のほうから甘い匂いが立ちのぼる。湯気がまっすぐ上がるのを見てから、湯のみに移した。
盆にのせて、客室の戸を軽く叩く。
「夜分にすみません。よろしければ、温かいものを」
少し間があって、戸が開いた。ガルドはまだ起きていた。寝具に横になった跡はなく、しわもほとんどない。窓のそばに、ただ静かに座っていたようだった。
「……すまんな」
低い声で言って、湯のみを受け取る。両手で包むように持つ手つきがていねいだった。
「蜂蜜を少しだけ入れてあります。ゆっくりどうぞ」
「助かる」
「眠り草を、窓辺に置いてもよろしいですか」
「ああ」
厨房から持ってきた眠り草の茎を一本折り、窓辺に置いた。枕から少し離れたところで、折り口に顔を寄せると淡く香った。
ガルドがその匂いにふと気づいたように、窓辺へ目をやる。何も言わなかった。けれど、咎めるような顔ではなかった。
「では、ゆっくりお休みください」
戸を閉めかけると、ガルドが湯のみに口をつけた。ひと口、ふた口とゆっくり飲む。静かに戸を閉めた。
厨房に戻って、残りの片づけを終える。奥の棚には、一本抜いた眠り草の束が掛かっていた。
しばらくして、もう一度廊下の奥を見た。戸の下の灯りが、消えている。眠れたかどうかは、ここからは分からない。廊下の奥は、暗く静かだった。
厨房の灯りは、もう少しだけつけておいた。
窓の外が、夜の底からゆっくり白みはじめていた。
灯里のまかない日誌より
三十七日目、夜。
蜂蜜の白湯を、一杯。
窓辺に、眠り草を一本。
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