↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
12/12

#12 数えている人

王都の喧騒から離れた、宮廷の片隅にある小さな部屋。私は、その部屋を「傾聴の間」と名付けた。壁は厚く、窓は小さく、外界の音を遮断するように設計されている。官吏たちは、この部屋に予算を割くことに対し、露骨な冷ややかさを示していた。彼らにとって、私の行う行為は、単なる「おしゃべり」に過ぎないのだろう。


私は、ガレス・ドナヴァンとの面接を終えたばかりだった。彼の残した、重く乾いた沈黙が、まだ私の胸の奥に澱んでいる。あの沈黙は、私の「理解できない」という言葉によって、一時的に封じ込められた。私は、彼が抱える「選ぶことの重さ」を、まだ知らないのだと、自分に言い聞かせた。


その日の午後、私は教会の療養所へと向かった。そこは、宮廷の厳格な管理下にあるが、私の「傾聴の間」とは異なり、祈りと儀式が支配する空間だった。英雄崩れと見なされた者たちは、ここに集められ、司祭たちの祈祷と、断食という名の「浄化」を受けていた。


私は、この場所の空気を吸い込むたびに、奇妙な違和感を覚えた。それは、祈りの熱気と、それに抗うような、微かな「冷たさ」が混ざり合ったような、不協和音だった。


「治癒官殿。本日は、経過観察のためにお越しいただきました」


担当の司祭が、私を迎え入れた。彼は、私の存在を、一種の「異端」として扱っているようだった。彼の視線には、敬意よりも、警戒の色が濃かった。


「はい。経過を拝見したいのです」私は、淡々と答えた。


療養所の病室は、清潔ではあったが、どこか息苦しい空気に満ちていた。壁には聖人の肖像画が飾られ、部屋の隅々まで、祈りの痕跡が残されていた。


私は、まず、最も症状が重いとされている一人の元兵士の部屋を訪れた。彼は、拘束具をつけられ、ベッドの上で激しく震えていた。司祭たちは、彼に対して、祈祷を続けていた。


「神の御名において、悪しきものが去りなされよ」


司祭の朗々とした声が、部屋に響き渡る。その声は、力強く、絶対的な響きを持っていた。しかし、その祈りの最中、兵士の震えは、むしろ強くなっていた。


私は、その震えの「間隔」を数え始めた。


一つ。二つ。三つ。


祈祷が一段落し、司祭が次の祈りの言葉を始めるまでの、その短い「間」の長さ。私は、それを無意識に、しかし正確に数えていた。


祈祷が続く。司祭は、彼の魂を「浄化」しようとしている。だが、私の目には、その祈りが、彼の内側にある何かに、むしろ「刺激」を与えているように見えた。


祈祷が終わり、司祭が次の儀式へと移る。兵士は、一瞬、静かになったように見えた。しかし、その直後、彼の呼吸が乱れ、再び激しい震えが始まった。


私は、その「静かになった瞬間」と「再び震え始めた瞬間」の間の、極めて短い時間差を、記録していた。


「治癒官殿、どうか、この男の魂を鎮めてください」司祭が、私に懇願するように言った。


私は、彼に何も言わなかった。ただ、その震えのパターン、その間隔を、静かに数え続けた。


「祈りが、彼を鎮めているように見えますが」私は、努めて穏やかな声で尋ねた。「彼の、心臓の鼓動は、儀式前と比べて、どう変化していますか」


司祭は、困惑したように私を見た。彼は、祈りの効果を「信仰の力」として捉えていた。科学的な、あるいは生理学的な「変化」を、彼の世界観の中では考慮に入れていなかったのだろう。


「彼は、神の御力によって、浄化されつつあります。肉体の反応など、些細なことでは……」


「些細なこと、ですか」私は、静かに反論した。それは、反論というよりも、単なる「事実の提示」だった。


私は、彼が震える「間隔」を、もう一度、頭の中で再生した。祈祷の間の、その微細なズレ。それは、彼の魂が、祈りの言葉を「受け入れている」のではなく、むしろ「拒絶し、抵抗している」証拠のように見えた。


私は、この「数え方」を、誰にも見せないように、心の中に留めておいた。


その日の夕方、私は、療養所の管理棟へと向かった。そこで、私は、予期せぬ人物と対面した。若い修道女、シスター・エマだった。彼女は、他の修道女たちとは異なり、どこか張り詰めた緊張感を纏っていた。彼女は、祈りの儀式を、ただ見ているだけでは満足できないような、強い意志を秘めているように見えた。


「シスター・エマ」私は、彼女の名前を呼んだ。


彼女は、驚いたように私を見上げた。


「治癒官殿。お目にかかれて光栄です」彼女は、形式的な礼儀を述べたが、その瞳の奥には、私と同じような、何かを「見ている」ような光があった。


「あなたは、この療養所の経過を、どのようにご覧になっているのですか」私は、核心を突くような問いを投げかけた。


彼女は、一瞬、息を呑んだ。そして、ゆっくりと、懐から小さな革張りの台帳を取り出した。それは、他の誰の目にも触れていない、私的な記録だった。


「私は、経過を『観察』しています」彼女は、その台帳を、私の目の前にそっと置いた。「祈祷の回数、断食の経過日数、そして、彼らの脈拍の変動。全てを記録しています」


私は、その台帳を、まるで聖遺物でも見るかのように、注意深く見た。そこには、日付と時刻、そして、具体的な数値が、びっしりと書き込まれていた。


「これは……」


「これは、彼らが『悪魔に憑依されている』という、教会の定義とは異なる、彼らの魂の『状態』を記録したものです」彼女は、静かに続けた。「私は、彼らが信仰を失ったのではなく、信仰の『形』に、彼らの苦痛が適合しなくなっているのだと思うのです」


私は、その言葉に、全身の血が凍りつくのを感じた。


「適合しなくなっている、と?」


「はい。祈りは、彼らの魂を『浄化』するのではなく、彼らの魂が持つ『記憶の重さ』を、一時的に押し込めているだけです。その重さが、祈りのリズムと合わない。だから、彼らは、より激しく震えるのです」


彼女は、私に、この世界の「祝福」の仕組みを、別の角度から提示していた。それは、私が「見立て」として捉えていた現象を、彼女は「数値」として捉えていたのだ。


「祈りが効かないのではなく、これは祈りで治すものではないのだと思うのです」彼女は、そう断言した。


私は、その台帳を、そっと受け取った。その重さは、単なる紙の重さではなかった。それは、彼女が、この世界で、どれほどの孤独な戦いを続けてきたかの重さだった。


「なぜ、これを記録していたのですか」私は、尋ねた。


彼女は、俯き、その唇を噛んだ。


「私は、誰かに、この事実を、知ってほしかったからです。このままでは、彼らはただ、祈りのリズムに合わせて、静かに、崩れてしまうだけだと、感じていたからです」


その時、廊下の向こうから、重々しい足音が近づいてくるのが分かった。


「シスター・エマ!」


大司教グレゴアの声だった。その声には、威圧と、絶対的な権威が込められていた。


エマは、反射的に、その台帳を胸に抱きしめた。


「大司教様……」


グレゴアは、ゆっくりと近づいてきた。彼の顔には、怒りというよりも、深い「失望」の色が浮かんでいた。


「何を隠している。この療養所の記録を、私的な手に渡すとは」


彼は、エマの台帳を、まるで汚物でも見るかのように、手から奪い取った。


「これは、教会の管理下に置かれるべき記録です。個人の感情で、神聖な儀式の経過を歪めることは許されません」


エマは、抵抗しなかった。彼女は、自分が「異端」として扱われることを、既に予期していたのだ。


グレゴアは、台帳を手に取り、そのページを、まるで虫眼鏡で覗き込むかのように、ゆっくりと捲っていった。彼の指先が、私の目にも見えるほど、微かに震えていた。


彼は、私の存在に気づいたようだった。彼は、私を、この「異端」の現場に呼び出したのだ。


「治癒官殿」グレゴアは、私に向き直った。その視線は、私を値踏みしていた。


「あなたは、この国の、最もデリケートな部分に触れようとしている。人の魂という、最も神聖で、最も脆い領域に、あなたの『術』を適用しようとしている」


彼は、私の「傾聴の間」の存在を、既に知っていた。


「私は、あなたの行為を、看過することはできません。なぜなら、あなたの行為は、この国の根幹に関わるからです」


彼は、私の前に、重々しく、一つの問いを突きつけた。それは、単なる質問ではなかった。それは、この国の倫理と、私の存在そのものを問う、重い「審問」の始まりだった。


「では、治癒官殿。同意なく人の魂に触れた者は、この国では何と呼ばれるべきでしょうか」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。