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近江の山奥から始める近代国家建設 〜転生田舎領主は戦国そのものを終わらせたい〜  作者: 近江もののふ
第三章 北伊勢戦役

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第80話 治田の沙汰

 天文二十四年てんぶんにじゅうよねん(1555年)、五月。

 伊勢国(いせのくに)三重郡(みえぐん)江野(えの)、屋敷。


 治田(はった)から連れ帰った兵は、本部百人の後ろに続いて江野へ入った。槍も弓も取り上げてあるため、列の上には穂先が一本も見えない。代わりに荷車へ積んだ武器が道の揺れに合わせて鳴り、その脇には治田城から持ち出した帳面(ちょうめん)が載っていた。


 屋敷へ着くと、玄以(げんい)書役(しょやく)を連れて待っていた。俺は後ろの列を示し、治田兵を預ける。

孫十郎(まごじゅうろう)。全員の名を取れ。治田で何をしていたかも分かる範囲でな」

「寝所と兵糧(ひょうろう)もこちらで割り振ります」

「ああ。終わった者から教練方(きょうれんがた)へ回せ。取り上げた武器はまだ渡すな」

「元の役持ちも分けて記しておきます」


 玄以が列へ入ると、書役たちも後に続いた。先頭から名を尋ねられ、答えた者が脇へ移っていく。元の仲間同士で寄ろうとする者もいたが、今は一人ずつ、何をしていた兵なのか確かめるのが先だ。


 山城守(やましろのかみ)の嫡男と松雲軒(しょううんけん)は、その列へ加えずに残した。二人の扱いまで治田兵と一緒にはできない。俺は側にいる政基(まさもと)へ顔を向けた。

弦十郎(げんじゅうろう)。二人は別々に置け」

「見張りも分けておきます」


 二人がそれぞれ連れていかれる間に、荷車から帳面が下ろされ始めた。六郎左衛門尉ろくろうざえもんのじょうは帰路の途中で千種(ちくさ)へ預けてある。これで、城内の争いに関わった者を同じ場所へ置かずに済む。


 治田兵の受付を指示して戻ってきた玄以へ、俺は帳面の一束を渡した。

「孫十郎。こっちは治田の帳面だ」

「近藤殿たちの分は」

「近藤たちと上笠田(かみかさだ)の帳面は、受け取りから善祥坊(ぜんしょうぼう)に任せる。こっちは治田だけ見てくれ」

「では、蔵と年貢(ねんぐ)、村ごとに分けます。食い違いがあれば先に抜いておきます」

「頼む」


 玄以は表書きを確かめながら、下ろされた帳面を分け始めた。治田を離れる前に、現地の総指揮は継潤(けいじゅん)へ預けてある。六城の接収(せっしゅう)と四家の兵の取りまとめ、その後の城と兵の整理まで、向こうで進めてもらう。


 俺が江野で決めるのは、治田家の処分だ。とはいえ、戻ったその日に沙汰(さた)を出す気はなかった。城内にいた者から改めて話を聞かせ、誰が斬り、誰が命じ、誰が争いを広げたのかを調べさせる。どちらの側にいたかだけで決めれば、命じられて従った兵まで一緒に処分することになる。


 数日後、揃った書付(かきつけ)を前に、松雲軒と山城守の嫡男を評定場(ひょうじょうば)へ出させた。政基と玄以、書役が壁際に控え、聞き取った内容を順に読み上げていく。二人は膝の前に手を置いたまま聞いていた。


 最後の読み上げが終わると、俺は六郎左衛門尉の処分から告げた。

「六郎左衛門尉は、主殺しと内訌(ないこう)の責で死罪。斬首(ざんしゅ)とする」


 山城守の嫡男が顔を上げた。父を斬った者への沙汰を聞き逃すまいとしているのか、こちらを見たまま動かない。俺はその視線を受けながら、政基へ沙汰書(さたがき)を渡した。

「弦十郎。千種へ沙汰を送れ。朝明川(あさけがわ)の河原で執行させる」

「すぐ使者を出します」


 政基が沙汰書を受け取ると、俺は嫡男へ向き直った。父の仇を処分するからといって、この男に家を継がせるわけではない。

「お前の家督相続(かとくそうぞく)は認めない。廃嫡(はいちゃく)とする」

「……はっ」

「父親を殺されたことと、お前が内訌に加わったことは別だ。明日から治田兵と一緒に教練を受けろ」

「橘の兵として、でございますか」

「ああ。一兵からやり直せ」

「承知いたしました」


 嫡男が頭を下げると、玄以はその者について記した書付を抜き、治田兵の分へ重ねた。

「寝所と兵糧も、他の治田兵と同じにいたします」

「そうしてくれ」


 元の家で何者だったかは記録に残す。それと、これから与える役目は別だ。俺はまだ手元に残っている書付を取り、ほかの者の扱いを玄以へ伝えた。

「他も六郎方か嫡男方かでまとめるな。人を斬った者や争いを煽った者は、斬首か切腹(せっぷく)。命じられて加わっただけの者は放免(ほうめん)とする」

「処分ごとに分けておきます」

「それと、これで終わりだ。この先、昔のことを持ち出して揉めた者は、どちら側だろうと全員斬首とする」

「その旨も沙汰書へ入れておきます」


 書役の筆が動く間、俺は二人の顔を確かめた。治田で始まった争いを、橘の中へ持ち込ませるつもりはない。嫡男が伏せていた顔を僅かに上げ、松雲軒もこちらへ向き直った。


 俺は松雲軒を呼んだ。

「松雲軒」

「はっ」

「治田家は、お前に継がせる」

(それがし)が、でございますか」

「ああ。ただし、治田城も土地も返さない。兵も年貢も、村へ指図する権利も治田家には戻さない」

「……承知いたしました」


 松雲軒は一度視線を落としたが、異議は口にしなかった。俺は返答を待ってから、残る条件を伝えた。

「治田は俺が直接押さえる。お前は橘の家臣として働け」

「家名を残していただけるだけで十分にございます」

「役目は働きを見て決める」

「お任せくだされ」


 松雲軒が深く頭を下げた。隣の嫡男は顔を伏せたまま、何も言わない。二人を下がらせると、政基は千種へ送る沙汰書を持って席を立ち、玄以も処分ごとに分けた書付を抱えて書役のところへ戻った。


 * * *


 治田城の曲輪(くるわ)では、六城の接収へ向かう者たちが馬を引き出していた。家次(いえつぐ)の横には吉綱(よしつな)親正(ちかまさ)の横には佐兵衛(さへえ)がいる。光泰(みつやす)大蔵介(おおくらのすけ)と並び、忠治(ただはる)範者(のりもの)と話していた。


 出立の支度が整うのを確かめ、継潤が四組へ声を掛けた。

「城の者には、当主から引き渡しを命じてもらう。武器、兵糧、帳面を受け取り、城兵は本隊と分ける。判断に迷うことがあれば治田へ上げてくれ」


 家次は吉綱と出立の順を確かめ、継潤へ答えた。

白瀬(しらせ)から片付けます」


 家次が馬へ乗ると、吉綱も続いた。親正と佐兵衛は向平(むこだいら)へ、光泰と大蔵介は下笠田(しもかさだ)へ向かう。先の三組が門へ進んだところで、忠治も範者を促した。

主計頭(かずえのかみ)殿、上木(あげき)へ参りましょう」

「渡すと決めた城だ。家中には私から命じる」


 白瀬へ着いた吉綱は、城兵を門内へ集めた。兵たちの手にはまだ槍や弓があり、吉綱の側に立つ家次へ視線が向けられている。


 吉綱は列の前で足を止め、引き渡しを命じた。

「この城は橘へ渡す。武器を置き、七郎左衛門(しちろうざえもん)殿の指図に従え」


 列の中にざわめきが走った。隣の者の顔を見る兵もいたが、吉綱は命を取り消さず、その場に立っていた。やがて一人が槍を置くと、ほかの兵も続き、門脇へ弓や槍が集まり始めた。


 家次は武器を集める兵を残し、吉綱と蔵へ向かった。

弾正左衛門(だんじょうざえもん)殿。兵糧と帳面をお願いします」

「蔵番を呼ぼう」


 吉綱が家臣を呼ぶ間に、家次は書役へ蔵の中を改めさせた。帳面をその場で開き、積まれた俵は動かさずに数を取る。蔵の受け取りを進めながら、家次は吉綱へ城兵の扱いを伝えた。

「城に残っていた兵は、こちらで預かります」

「本隊とは分けるのだな」

「ええ。本隊は治田に置いたままで」


 吉綱は家臣を通じ、城兵に治田へ向かう支度を命じた。兵が荷をまとめる間にも蔵の確認は続き、書役が最後の数を書き終えると、家次は門外で待たせていた人足(にんそく)を入れた。


 家次は入ってくる人足を示し、吉綱へ告げた。

「白瀬は残しません。門と柵から外します」

「分かった。城の者には私から伝えよう」


 向平でも、佐兵衛が城兵の前に立っていた。親正は側に控え、佐兵衛の命令を待つ。

「向平は橘へ渡す。武器を置け。甚助(じんすけ)殿の指図に従うように」


 武器の受け取りが始まると、親正は蔵へ入り、帳面を書役へ渡させた。俵を数える声を聞きながら、佐兵衛へこの後の予定を伝える。

「こちらが済んだら、そのまま下平(しもひら)へ参ります」

「人足も連れていくのか」

「向平は残しません。下平も同じです」

「なら、向こうの者にも私から話そう」


 支度を終えた城兵が門を出ると、人足が入れ替わるように入ってきた。親正は門と柵の取り外しに必要な者を残し、佐兵衛を伴って下平へ向かった。


 下笠田では大蔵介が引き渡しを命じ、光泰が蔵と帳面を受け取った。確認を終えた二人は上笠田へ移り、そこでも大蔵介が城兵を集める。


 城兵の顔を見渡してから、大蔵介は命を下した。

「この城も橘へ渡す。武器を置き、作内(さくない)殿に従え」


 槍や弓が集められる横を通り、光泰は門から坂下を確かめた。下笠田で受け取ったものと、これから上笠田で受け取るものを手元の書付で確かめ、大蔵介へ向き直る。

「大蔵介殿。残すのは下笠田にします。こちらは(はい)します」

「上笠田の兵は」

「治田へ送ります。使える材は下笠田へ回します」


 光泰は人足を門へ集め、取り外す場所を示した。

「門から外せ。柱は割るな。そのまま下へ持っていく」


 門扉(もんぴ)へ縄が掛けられ、人足が両側へ取りついた。大蔵介は作業の始まった門を一度見てから、城兵の出立を命じに戻った。


 上木では、範者が自ら城兵を並ばせていた。忠治を側に立たせ、蔵も含めた引き渡しを告げる。

「城も蔵も、すべて橘へ渡す。三郎左衛門(さぶろうざえもん)殿の指図に従え」


 武器が集められ、帳面が忠治へ渡された。忠治は蔵と兵糧の確認を済ませると、範者と本丸(ほんまる)へ上がった。北へ続く道をしばらく眺め、城から出入りする際の道筋を確かめていく。


 忠治は範者へ振り返った。

「ここは壊さずにおきます」

「残すのか」

「北へ進む時に使えます」


 その場で書付を作らせ、忠治は使者へ渡した。

「善祥坊殿へ。上木は残した方がいいと伝えてくれ」


 その日のうちに、治田城へ各所から書付が届き始めた。継潤は白瀬、向平、下平、下笠田、上笠田の報告を順に読み、最後に上木から届いた一枚を開いた。忠治は、北へ進む際に使う城として残すよう求めている。


 継潤は上木の書付を、治田と下笠田の分へ重ねた。

「上木は残す。白瀬、向平、下平、上笠田は、そのまま廃城(はいじょう)を進めさせよう」


 書役が返書(へんしょ)を作り、各所へ送った。数日後には白瀬で柵が外され、向平と下平でも門扉が下ろされた。上笠田では取り外した柱や板が縄でまとめられ、下笠田へ運ぶ荷車に積まれていく。土塁(どるい)も曲輪もまだ形を残していたが、先に使える材を運び出し、城として使えなくする作業が続いていた。


 治田城では、城の整理と並行して兵の組み替えが始まった。秀吉(ひでよし)の第四大隊三百が曲輪へ集まり、三人の中隊長が継潤の前へ出る。


 継潤は三人へ、それぞれの行き先を告げた。

「治田に百。上木に百。下笠田に百。城代(じょうだい)はまだ置かぬ」


 中隊長たちが戻ると、上木と下笠田へ向かう二隊では、小隊ごとに兵がまとまり、荷の仕分けが始まった。秀吉は長く率いてきた兵が支度をするのを見届け、曲輪の反対側へ歩いていった。


 そちらには、六城から集められた城兵が並んでいる。秀吉は列の前へ立ち、兵たちに聞こえるよう声を張った。

「槍を使っていた者は右へ。弓は左。鉄砲を扱える者は残れ」


 兵が左右へ動き、書役が元いた城と得物(えもの)を書き留めていく。秀吉は人数が出るまでその場を離れず、書き終えた分から受け取って確かめた。


 一通りの数を得ると、秀吉は継潤のところへ戻った。

「これなら第四大隊は組めそうです」

「この者らは、おぬしの指揮部隊として働かせろ」

「先にまとめ役を決めます」


 秀吉は列へ戻り、それまでの役目や兵を率いた経験を一人ずつ尋ねた。三人の中隊長を決め、その下へ小隊長を置き、さらに分隊長を選んでいく。指揮役が揃う頃には、兵たちも自分が誰の下へ入るのか、前に出た者の顔を見ていた。


 秀吉は三人の中隊長を呼び寄せた。

「百ずつに分ける。元いた城だけで固めるな」


 中隊長が兵を受け取り、小隊長へ割り振った。小隊長はその中から分隊を組み、十人ずつ分隊長の下へ並ばせる。秀吉は出来上がった列を端から歩き、書役の記録と兵の並びを見比べた。


 同じ城の出身者が続くところで、秀吉は足を止めた。

「ここは寄りすぎている。ほかの組と入れ替えろ。済んだ中隊から教練に入れ」


 呼ばれた小隊長が列の一部を動かし、別の分隊へ兵を移す。その向こうでは、組み分けを終えた中隊が教練のために列を整え始めていた。


 上木から戻った忠治は、その様子を横に見ながら継潤へ書付を渡した。

「片山勢は治田へ戻しております。次の出陣では、沙汰どおり先鋒(せんぽう)へ立たせます」

「近藤、田切、多湖も今は動かさぬ。四家の兵は、そのまま治田周辺へ置こう」


 継潤は各所からの報告に片山勢の書付を加え、江野へ知らせる内容をまとめさせた。書き上がったものを確かめ、待たせていた使者へ渡す。

「十兵衛様へ送ってくれ」


 使者は書付を懐へ入れ、曲輪を横切った。城を下るその後ろでは、新しく第四大隊へ入った兵が、教練の号令に合わせて動き始めていた。


 * * *


 数日後、勘次(かんじ)が治田から届いた書付を机へ置いた。平助(へいすけ)虎松(とらまつ)も付いてきており、俺が読み終えたものから、返書の要る分を脇へ分けている。


 勘次が継潤からの報告を開いた。

「若、善祥坊様からです。三城には百ずつ入りました。白瀬、向平、下平、上笠田も壊し始めてます」

「第四大隊は」

「組み直しも始まってます。藤吉郎(とうきちろう)殿も明日の昼には戻るそうです」


 俺が報告へ目を通す間に、虎松は用意していた返書を差し出した。

「第四大隊は、そのまま藤吉郎殿に預ける。これでいいですか」

「いい」


 虎松はすぐ平助へ顔を向けた。

「ほらな」

「何がだよ」


 虎松が俺へ向き直り、平助を指した。

「平助が違うって言った」

「言ってない。若に見せてからって言ったんだ」


 言い返している平助の手から、勘次が返書を取った。ほかの書付と合わせて畳むと、二人を残して戸口へ向かおうとする。

「二人とも置いていきます」

「連れていけ」


 俺が即座に返すと、虎松が不満そうにこちらを見た。

「若までそっちにつくのかよ」


 それでも置いていかれる気はないらしく、虎松も平助も勘次の後を追った。廊下へ出ても、どちらが何を言ったかでまだ言い合っている。俺は三人の声が遠ざかるのを聞きながら、治田からの報告を残りの書付へ重ねた。


 しばらくして綾が顔を出した。机の上を一度確かめてから、俺へ話しかける。

「十兵衛様。湯場(ゆば)の方に造っておりました湯殿(ゆどの)が、ようやく使えるようになりました」

「出来たのか。綾はもう使ったのか」

「いいえ。十兵衛様がお戻りになってからと思っておりました」

「そうか。なら、明日行こう」

「支度をしておきます」


 綾が下がった後、俺は机に残った書付を確かめた。明日へ持ち越さずに済むものから片付けておく。湯へ行くと言っておいて、また屋敷で待たせることにはしたくなかった。


 * * *


 翌日、湯場の奥へ進むと、新しい板塀(いたべい)と門が見えた。他の湯屋から少し離れた場所を囲ってあり、門の先で男湯と女湯に分かれている。奥には湯上がりに休む部屋もあって、食事を取り、そのまま泊まれるようになっていた。


 政基と護衛は近くの別棟(べつむね)へ入り、綾付きの侍女(じじょ)も支度を終えると控えへ下がった。俺は休む部屋から湯殿の方まで見渡した。

「思っていたより広いな」

「泊まれるようにもしていただきましたから」

「ここまで出来ていたのに、使わずに待っていたのか」

「十兵衛様と最初に使いたかったのです」

「そうか。待たせたな」

「今日入れますから」


 綾は少し笑い、女湯へ向かった。俺も男湯へ入り、身に着けていたものを脱いでいく。新しい板はまだ色が薄く、湯気を吸った木の匂いがこもっていた。


 木桶(きおけ)で身体を流してから湯船へ入り、肩まで沈むと、思わず息が漏れた。治田へ出てからは、(よろい)を着けて動く時間が長かった。怪我はしていないが、肩から背中に残っていた重さは、鎧を脱いだだけでは取れていなかったらしい。


 縁へ背を預け、脚を楽にした。外では水の流れる音が続いている。耳を澄ましても、近づいてくる足音も、俺を呼ぶ声もない。次に何をするか考えかけて、今は何もしなくていいのだと思い直した。


 しばらく湯の中で肩を動かし、また縁へ身を預けた。こうしている間に書付が溜まっているかもしれないが、戻れば読むことになる。今から気にしていても仕方がなかった。


 湯を出て休みの間へ行くと、綾はもう(ぜん)の前に座っていた。俺の姿を認め、顔を上げる。

「随分長うございましたね」

「少し入りすぎた」

「お気に召しましたか」

「ああ。思っていたより良かった。身体が随分固まっていたらしい」

「江野へお戻りになった時から、お疲れに見えました」

「顔に出ていたか」

夕餉(ゆうげ)の途中で、何度か目を閉じておられましたから」

「そこまで見られていたか」

「毎日見ておりますので」


 綾は何でもないことのように椀を取った。俺は向かいへ座り、膳に手を伸ばす。自分では飯を食っていただけのつもりだったが、思っていた以上に疲れが出ていたようだ。


 普段の屋敷なら、食事の途中でも書付が届き、人が出入りする。今日は急ぎでなければ朝まで持ち込ませないことにしてある。俺は廊下から誰か来る気配を気にせず、綾へ話しかけた。

「二人でゆっくり食べるのも久しぶりだな」

「江野へ参ってからは、あまりございませんでしたね」

「戻ってきても、すぐ次の話になるからな」

「皆様、十兵衛様がお戻りになるのを待っておられますから」

「分かってはいるんだがな」


 綾も、それを責めるつもりで言ったわけではないのだろう。俺の返事を聞くと、そのまま箸を進めた。しばらく料理を取り分ける音だけが続き、俺も話の続きを探さずに食べた。


 やがて綾が箸を休め、こちらを見た。

「次は、いつ江野へお戻りになれますか」

「まだ分からない。治田へ戻った後、そのまま北へ進むことになると思う」

「では、着替えを多めに用意しておきます」

「頼む。今回は戻る日を決めて出るのは難しい」

「途中でも届けられるようにしておきます」

「それなら助かる」


 綾は頷き、次の料理へ箸を伸ばした。いつ戻るか答えられないまま、支度だけ頼むことになる。俺は椀を置き、留守の間のことを伝えた。

「俺が長く戻れないなら、朝霧へ行っていてもいいぞ」

「朝霧へは参ります。ただ、こちらへ戻ってまいります」

「江野へか」

「はい。十兵衛様がお戻りになるのはこちらでしょう」

「ああ」

「でしたら、綾もこちらへ戻ります」

「そうか。分かった」


 綾の答えに迷いはなかった。朝霧へ行くなと言うつもりも、江野で待ち続けろと言うつもりもない。本人が戻る場所を決めているなら、それ以上、俺が勧めることでもなかった。


 食事が終わる頃、綾が湯殿の方を見た。泊まる部屋へ続く廊下まで目をやってから、俺へ尋ねる。

「十兵衛様。こちらは、どなたまでお使いいただいてよろしいのでしょう」

「父上と母上、惟丸(これまる)初音(はつね)まではいい」

「父上がお越しになった時は」

「こちらは橘の家族だけにしよう。舅殿(しゅうとどの)たちや客人には、別に造らせている方を使ってもらう」

「分かりました。では、こちらのことは綾の方で整えておきます」

「ああ。任せる」


 使う者の範囲が決まると、綾はそれ以上、湯殿の話を続けなかった。俺も細かなことまで尋ねず、残っていた料理へ箸を伸ばした。


 夜には、泊まる部屋へ二組の寝具(しんぐ)が敷かれた。屋敷から持ってきたものを脇へ寄せ、太刀(たち)を外して枕元へ置く。綾は寝具の側に座ったまま、その刀を見ていた。


 綾が枕元から俺へ目を移した。

「今夜も、お側へ置かれるのですね」

「ああ。こればかりは、すぐには変わらないな」

「今夜、急にお出になることはございますか」

「ない。朝まではここにいる」

「では、安心いたしました」


 灯りを落として横になると、湯から上がった後の温かさがまだ身体に残っていた。隣で綾が寝返りを打ち、衣擦れの音がする。俺も楽な向きへ身体をずらし、目を閉じた。


 やがて綾の動く音も途切れた。外では変わらず湯が流れている。その音を聞いているうちに、俺も眠りに落ちた。

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