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近江の山奥から始める近代国家建設 〜転生田舎領主は戦国そのものを終わらせたい〜  作者: 近江もののふ
第三章 北伊勢戦役

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第76話 それぞれの役目

 天文二十三年てんぶんにじゅうさんねん(1554年)、秋。

 近江国(おうみのくに) 愛智郡(えちぐん) 朝霧村(あさぎりむら)


 江野(えの)を出て朝霧へ戻ったのは、朝から降っていた雨が上がった日の昼過ぎだった。夏に人を移してからも、朝霧との間を荷や使番(つかいばん)は往復している。久しぶりに戻ると、道を行く荷車は以前より増えていた。


 屋敷へ向かう途中、鉄砲鍛冶場から(つち)の音が聞こえ、そのまま足を向けた。中へ入ると、喜平(きへい)が外した火縄銃(ひなわじゅう)の金具を見ている。少し離れた台では、弟子が銃を一丁前に置き、火挟(ひばさ)みを動かしていた。


 喜平が顔を上げた。

「お戻りでしたか」

「ああ。喜平、二年余りやってどこまで来た」

「修理なら、だいぶ弟子へ任せられます。新しく造る方は、まだわしが見ております」

「見せてくれ」


 喜平は手にしていた金具を置いた。弟子が火挟みを動かし、金具の一か所を指す。

「親方。ここが緩んでおります。締め直せば使えると思います」

「筒は見たか」

「はい。傷みはありません」


 喜平は銃口から筒の内を確かめ、火挟みを二度動かした。

「それでよい。直した後でもう一度見ろ」

「はい」


 隣では別の弟子が、寸法を書いた木札を見ながら台木(だいぎ)へ金具を合わせていた。

「ここまで任せられるようになったのか」

「台木や火挟み、火蓋(ひぶた)なら、もう弟子に任せられます。見本と寸法さえ揃っていれば、わしが手を出すことも減りましたな」


 奥の台には、旧千種方から取り上げた鉄砲が何丁か並んでいた。長さが違うだけではない。銃口を見比べると、僅かに口径(こうけい)も違っている。


 俺は並んだ鉄砲を指した。

「これはどうする」

「使える物から直しております。ただ、国友(くにとも)から買った二百丁と一緒にはせぬ方がよろしいでしょう」

「玉が合わないか」

「はい。国友の物は同じ弾型で鋳た玉を使えますが、こちらは一本ずつ見ねばなりませぬ」


 五百丁まで増えても、運用まで揃ったわけではない。

「新しい筒はどうだ」

「まだ国友から買われた方がよろしいでしょう」

「朝霧で造るには早いか」

「一本を試すことはできます。ですが、兵へ渡す物を同じ出来で揃えるところまでは来ておりませぬ」


 喜平は奥から一本の筒を持ってきた。表面には何度も叩き直した跡が残っている。

「これが今のところ一番ましな物です」

「撃てるのか」

「まだです。先に継ぎ目を確かめます。悪ければ、火薬を入れた時に裂けますので」

「形にはなったんだな」

「そこまでは。ただ、これを続けて同じように造れるかは別ですな」


 俺は筒を返した。

「弟子にもやらせているのか」

「まだ、わしと鍛冶を長くやっている者だけです」

「なら急がせなくていい。壊れた鉄砲を直せる者を増やす方を先にしてくれ」

「そのつもりです」


 喜平が筒を奥へ戻したところで、もう一つ聞いた。

「来年の夏で約束の期限だ。国友へ戻るか」


 喜平の手が止まり、近くにいた弟子たちへ目を向けた。

「少し外へ出ていろ」


 二人が離れるまで待ってから、喜平が口を開く。

「初めは戻るつもりでおりました」

「今は違うのか」

「ここで戻れば、せっかく覚えた者が筒を造る段へ進む前に終わります。わしも、あれを撃てるところまでは見たい」


 奥に置いた試作筒のことだろう。

「残ってくれるなら助かる。ただ、三年で戻る約束だからな。無理に引き留めるつもりはない」

「一度、国友へ戻って善兵衛(ぜんべえ)殿と話をさせてください。それで筋が通れば、わしはこちらへ残りましょう」

「ああ。必要なら俺からも書状(しょじょう)を出す」

「お願いします」


 夏までに返事を出せばいい。鍛冶場を出ると、今度は村外れへ向かった。


 * * *


 硝石(しょうせき)丘は、風向きのせいで道の途中から存在が分かった。小便の鼻につく臭いに、湿った(わら)と腐った物の臭いが重なっている。


 近くまで来ると、家畜の(ふん)を運んできた樽が何本か並び、その周りを(はえ)が飛んでいた。作業をしている者は、口元へ布を巻いている。


 俺も思わず鼻を押さえた。家人が口元の布を押さえながら答える。

「乾いている日はましでございます。雨の後と、風がこちらへ来る日はどうにもなりませぬ」

「まだこれだけ臭うのか」


 家人が苦笑した。文字で読んだ時には、ここまで鼻へ来るとは思っていなかった。


 一番古い囲いでは、積んでいた土を崩していた。家人が(たわら)を一つ運んでくる。


 俵の口を開きながら、家人が俺へ向き直った。

「こちらをご覧いただきたく」

「取れたのか」

「はい」


 俵の中には、白っぽい粒がぎっしりと詰まっていた。

「どのくらいだ」

「十万匁ほどにございます」


 俺は思わず俵へ目を戻した。二百匁や三百匁の話ではない。この量なら、鉄砲だけでなく大筒にも回せる。

「喜平には、もう使わせたか」

「すでに使わせております。火薬の出来も、買った物と並べて遜色ないとのことでした」


 家人の声にも、いつもより張りがあった。ようやく、他国から買わずとも戦える見込みが立つ。


 俺は崩している囲いへ目を向けた。

「次も同じ所から取れるか見よう。今ある囲いを一度に崩すな」

「新しい囲いは、増やしてよろしいので」

「ああ。ただし、そっちも仕込み方を残しておけ。変えるなら一か所ずつだ」

「承知しました」


 朝霧の区長にも来てもらっていた。囲いを離れる途中、村から運ばれてきた樽とすれ違う。蓋をしていても、近くを通れば臭いは分かった。中身を下ろした樽は、そのまま村へ持ち帰られていく。


 俺は区長へ声を掛けた。

「区長。(かわや)の方はどうだ」

「今のところ、困った話はございませぬ」

「決めた場所以外でする者は」

「おりませぬ」

「見つけたこともないか」

「はい。一度もございませぬ」


 区長は当然のような顔で答えた。

「十兵衛様が死罪(しざい)とお決めになったことを、知らぬ者はおりませぬので」


 一度も出ていないなら、規則は機能している。北勢(ほくせい)の他の村でも、同じ定めを敷いた方がいいかもしれない。

「厠が足りない所は」

「家が増えた所へは先に足しております。今のところ、不便だという話はございませぬ」

「ならいい。ほかに、人が増えて困っていることはないか」

「捨て物が増えましたな」


 区長は足元の道を指した。

「家の前なら皆片付けます。ただ、道へ落ちた物は誰の物か分からぬこともあります」

「沢へ捨てる者は」

「それはおりませぬ。下で水を使いますので」

「溝は」

「雨の後に詰まることが増えました。近くの家へ声を掛けておりますが、家のない所は後回しになります」


 人が少なかった頃は、近くに住む者が片付ければ済んでいた。だが、外から入る人や荷が増えた今は、誰の家の前でもない場所まで同じやり方では持たない。


 俺は区長へ新たな役目を伝えた。

「月に一度、村中で掃除する日を作ろう」

「皆を出すのでございますか」

「朝のうちだけでいい。道や溝を掃除して、水場と共同の厠の周りも見ろ」

「田仕事が忙しい時は」

「日をずらせ。田を放ってまでやることじゃない」

「それならできましょう」


 区長が頷いた。

「拾った物は、どこへ持っていきます」

「一所へ放り込むな。灰は灰で分けておけ」

「置く場所が要りますな」

「父上に話して決める。水場から離れていて、今使っていない所をいくつか見ておいてくれ」

「承知しました」


 前世で言えば、月に一度の美化運動みたいなものだ。火薬を作るために糞尿(ふんにょう)を集め始めて、その先で村中の掃除まで決めることになるとは思わなかった。朝霧も、人が増えた分だけ新しい手間が増えている。


 * * *


 屋敷へ戻ると、頼政(よりまさ)が俺を見るなり眉を寄せた。

「十兵衛。何だ、その臭いは」

「硝石丘へ寄ってきました」

「先に着替えてこい」

「……はい」


 言われてみれば、自分でもまだ分かる。


 着替えて戻ってから、月に一度の掃除を始めることと、捨て場の候補を区長に探させたことを伝えた。

「田植えや刈り入れと重なる時は」

「日をずらします」

「ならよい。捨て場は沢から離せ。空いているように見えても、誰かが使っている土地かもしれん」

「候補が出たら、父上にも確かめてもらいます」


 頼政が俺を見た。

「十兵衛。江野へ行っても、朝霧へ仕事を増やすな」

「増やしたつもりはないんですが」

「今、一つ増えたではないか」

「……それはそうですね」


 頼政が小さく笑った。

「まあ、人が増えれば昔と同じでは済まぬ。後はこちらでやる」

「お願いします」


 朝霧は、俺がいなくても頼政を中心に回っている。だが江野は、まだ俺のところへ仕事が集まりすぎていた。


 * * *


 夕方、惟丸(これまる)小竹(こちく)を呼んだ。惟丸が先に座り、小竹は少し後ろへ入る。


 俺は小竹へ告げた。

「小竹。今日から木下(きのした)を名乗れ」

「木下、ですか」

「ああ。藤吉郎と同じだ。名も付ける。小一郎秀長(こいちろうひでなが)とする」

「小一郎、秀長」


 秀長は、新しい名を何度か口の中で確かめた。

「兄者と同じ木下になるんですね」

「そうだ。元服(げんぷく)を待たず、今日から名乗っていい」


 惟丸は隣から秀長を見ていた。

「では、私も小一郎と呼ぶのですか」

「好きにすればいい」

「小竹の方が呼びやすいです」

「俺も、その方が落ち着きます」

「名を与えた意味がなくなるだろ」

「人に名乗る時は小一郎と申します。惟丸様には今まで通りで」


 惟丸が嬉しそうに頷いた。まあ、それならいい。


 俺は秀長へ、もう一つ伝えた。

「小一郎。今まで通り惟丸の側にいろ。元服した後は近習(きんじゅう)として、正式に仕えろ」

「惟丸様に、ですか」

「ああ。俺や藤吉郎の下へ移すつもりはない。惟丸の家臣だ」


 惟丸が俺を見た。

「兄上。今までとは違うのですか」

「今は俺が側へ置いている。これから先は、お前が直接役目を命じることになる」

「何を命じればいいのですか」

「今すぐ考えなくていい。まずは今まで通りだ」


 惟丸は少し考え、秀長へ向き直った。

「では、明日も一緒に弓のところへ来てください」

「はい」


 最初の命令は、それらしい。秀長も笑っていた。名前を変えても、明日から急に別人になるわけじゃない。ただ、惟丸の側にいる理由は、今日から少し変わった。


 * * *


 夜になってから、(あや)の部屋へ行った。


 綾は俺を見ると、少し意外そうな顔をした。

「今日はもうお出掛けにならないのですか」

「行かない」

「朝から鉄砲のところへ行かれたと聞きましたので、そのまま日が暮れるまで戻られないかと思っておりました」

「俺はそんなに屋敷にいないか」

「はい」


 間を置かず返された。横にいた侍女(じじょ)まで顔を伏せている。笑っているのが分かった。


 俺は江野のことを伝えた。

「江野の屋敷だが、来年には使えると思う」

「では、私も参れるのですね」

「ああ。長く朝霧へ残して悪かった」


 綾は首を振った。

「私は困っておりません。ただ……」

「ただ」

「江野のことを、もう少し知りたいです」


 予想していなかった言葉だった。

「どんな所か」

「はい。十兵衛様が暮らしておられるのに、私は屋敷がどこまで出来たのかも知りません」


 完成してから見せればいいと思っていた。それでは遅いらしい。

「山上はまだ普請の途中だから、俺は麓の仮屋で暮らしてる。作兵衛もそっちへ炉を構えたし、最近は湯殿も使えるようになった」

「湯殿があるのですか」

「ああ」

「初めて聞きました」


 傍の侍女まで、こちらを見た。

「……次からは、書いて知らせる」

「お願いします」


 綾が笑った。しばらくして、俺は思いついたことをそのまま口にする。

「明日、多賀社(たがしゃ)へ行こう」

「明日ですか」

「ああ。一日空ける」

「江野へ戻られなくてよろしいのですか」

「一日くらいなら何とかなる」


 侍女がそこで口を挟んだ。

「十兵衛様。奥方様を歩かせ続けるおつもりではございませんでしょうね」

「馬を使う」

「……そうでございますか」


 返事が少し弱い。綾が侍女を見た。

「嫌なの」

「嫌ではございません。ただ、大きゅうございますので」


 馬の話らしい。


 翌朝は政基(まさもと)ら少数の護衛だけを連れ、朝霧を出た。途中で道がぬかるんでいる場所に来るたび、いつもの癖で荷車が通れるか見てしまう。


 三度目に振り返ったところで、綾が言った。

「今日は道を見に来たのではないのでしょう」

「……そうだった」

「江野でも、いつもそのように道を見ておられるのですか」

「たぶん」


 綾がまた笑った。


 多賀社へ着いて参詣(さんけい)を済ませても、すぐには帰らなかった。境内(けいだい)から少し離れた所で休み、持ってきた餅を食べる。


 綾は人の行き来を眺めていた。

「江野へ移ったら、朝霧へはどのくらい戻れますか」

「まだ決めてない。だが、時々は戻る」

「母上にも、お会いできますね」

「ああ」


 綾はそれ以上聞かなかった。少しして、今度は自分から話し始める。

「江野へ参る時は、私の侍女も一緒でよろしいのですね」

「もちろん」

「それなら、先に持っていく物を分けておきます」

「まだ半年くらいあるぞ」

「十兵衛様は、使う前の日に探されるでしょう」

「否定できないな」


 侍女が後ろで大きく頷いていた。


 帰りに朝霧へ戻ると、馬から降りた侍女が無言で馬の首を見上げた。

「どうした」

「次は、もう少し小さい馬はございませんでしょうか」

「探しておく」

「お願いいたします」


 綾が笑いながら先に屋敷へ入っていった。朝から一日出ていたのに、今日は一度も仕事の話をしていない。そんな日は、ずいぶん久しぶりだった。


 * * *


 数日後、朝霧を発った。千種(ちくさ)へ入ったところで、江野へ向かう道を外れ、禅林寺(ぜんりんじ)へ寄る。


 旭巒玄東(きょくらんげんとう)には、今年の戦で死んだ者の供養(くよう)を頼んだ。

「橘方だけでございましょうか」

「いや。千種方も、杉谷から出た者も頼む。三嶽寺で死んだ者もだ」

「三嶽寺も」

「ああ」


 玄東は少し黙った。

「名の分かる者は、書き残してよろしいでしょうか」

「頼む。身内から名が分かれば足してくれ。分からない者まで無理に名を付ける必要はない」

「承りました」

「供養へ来たい者は止めなくていい。必要な米と銭はこちらで出す」


 玄東が頭を下げた。禅林寺を出ると、その日のうちに江野へ入った。


 * * *


 翌朝、麓の仮屋(かりや)へ行くと、入り口で男が二人言い争っていた。一人は千種から移ってきた木挽(こび)きで、もう一人は米を渡す蔵の者だった。


 俺が声を掛けると、蔵の者がすぐに頭を下げた。

「何があった」

「十兵衛様。この者は江野へ移ったと申すのですが、こちらの帳面に名がございませぬ」

「千種では移ると届けました。昨日も材を挽いております」


 忠治(ただはる)も横へ来た。

「移した者の控えは私のところにございます。ただ、蔵へはまだ回っておりませぬ」


 人を動かしたところで話が止まれば、次の仕事へ繋がらない。

「木挽きの名を控えろ。今日の米は渡していい」


 蔵の者が頭を下げた。俺は仮屋の中へ入り、昨日までに集めさせていた者たちを座らせる。旧千種家で書状を扱っていた男の前には、命令や役目の書付(かきつけ)が積まれていた。


 俺はその男へ役目を与えた。

「これから、お前のところを総務方(そうむかた)とする。人を移した話が来たら、必要なところへ回せ。自分で全部処理するな」

「誰が移ったかも、こちらで持つので」

「いや。それは別にする」


 人別帳(にんべつちょう)を扱っていた男を呼んだ。

「江野へ住む者の出入りは、お前が持て。今日から戸口方(ここうかた)だ。さっきの木挽きもここへ入れろ」

「家族まででございますか」

「一緒に来ているなら残せ。次に蔵へ行った時、また名がないと言われないようにしろ」


 そこへ、別の男が書付を持ってきた。

「三郎左衛門様から、城下へ移す家の場所を決めたいと」

「それは戸口じゃない」


 水争いや山境(やまざかい)取次(とりつぎ)をしていた地侍へ、書付を渡した。

「土地の方はお前が見ろ。屋敷地や水路もだ。地方(じかた)とする」

「では、住む者は戸口方、場所はこちらで」

「ああ。別々に決めず、双方で合わせろ」


 最初の書付が三人の間を渡っていった。次に来たのは、作兵衛の炉で使う炭の話だ。今月分は足りるが、城上へ道具を上げる量が増えれば不足するらしい。


 炭焼きや商人との取次をしていた男へ、俺は書付を渡した。

「これはお前だ。産業方(さんぎょうかた)として、炭をどこから増やせるか考えろ。自分で炭を焼きに行くなよ」

「炭焼きへ話を聞き、足りなければ買う先も探すので」

「そうだ。ただ、銭を出すところまで勝手に決めるな」


 蔵を扱ってきた男が顔を上げた。

「そこは私でございましょうか」

「そうだ。勘定方(かんじょうかた)で見る。必要な数が来たら、今ある銭で出せるか確かめろ」


 炭の書付も机を移った。五つに分けても、仕事まで綺麗に分かれるわけではない。人が動けば、住む場所も食う米も変わる。物を増やせば、それを買う銭が要る。だからこそ、どこで誰が受け取ったのかを残さなければならない。


 総務方の男が、机に残った書付を見た。

「十兵衛様。どこへ回すか分からぬ物は、こちらへ持ってきてもよろしいので」

「ああ。だが、何でも抱えるな。行き先を決めたら渡せ」


 男が頷くのを見届け、俺は五人へ目を移した。

「もう一つ。お前たちの誰かが休んでも、仕事が止まらぬようにしろ。自分しか分からない仕事を作るな」

書役(しょやく)にも帳面を見せるのでございますか」

「普通の仕事は見せろ。誰か一人しか分からない状態にするな」


 その横で秀吉(ひでよし)が手を挙げた。

「十兵衛様。わしの机はどこでございますか」

「ない」

「五つも作って、わしだけなしで」

藤吉郎(とうきちろう)は机に座るな。今みたいに、戸口方では移したと書いてあるのに蔵へ届いていない、という所を探せ」

「また間を歩くのでございますな」

「その方がお前には向いてるだろ」

「否定はしませぬ」


 秀吉が笑った。忠治は机の間を見回している。

「千種でも、同じように分けますか」

「ああ。彦九郎(ひこくろう)へ書付を出す。名前も同じにする。江野から千種へ人を動かした時に、どこへ話を持っていけばいいか迷わないようにしたい」

「でしたら、こちらで使った帳面を一部見せた方が早うございますな」

「総務方から写しを作らせてくれ」


 忠治が頷いた。昼前には、最初に揉めていた木挽きの名が戸口方の帳面へ入り、蔵にも書付が届いた。今度は誰かが覚えている必要はない。書付を見れば、次の者にも続きができる。


 その一方で、総務方の男の前には早くも新しい書付が積まれ始めていた。

「十兵衛様」

「今度は何だ」

「書役を、もう一人付けていただけませぬか」


 始めたその日に、人手不足か。机を分ければ仕事が減るわけではない。だが、何が足りないのかは前より見えるようになった。

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