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36 勇者、聞きそびれる。


 下弦の月が夜空に浮かぶ。

 夕食を終えたシェリーが紅茶を静かに味わっていると、玄関の方から物音が聞こえてきた。


(あ……帰ってきた)


 すっかり使い慣れたティーカップを置いて席から立つ。

 そして、廊下に顔を覗かせれば、非常に疲れた顔をしたロワがいた。金色の瞳は疲労で淀んでいるように見える。


「おかえりなさい。今にも倒れそうな顔をしているけど、そのまま息絶えてくれても構わないのよ?」


 それに真っ先に気付いたシェリーは、反射的にいつも通りの嫌味を投げかける。

 しかし、ロワはちらと視線を投げただけで、憎まれ口の代わりに大きな溜め息をついた。


(な、何よ……?)


 平坦な反応をされて、シェリーは内心で動揺する。仕事を終えて帰ってきたロワならもう何度も見てきたが、ここまで疲れているのは初めてだった。


(何かあったのかしら?)


 首を傾げているその間に、ロワは横を通り抜けてリビングのソファに倒れ込んだ。勢い良く飛び込んできたロワの体を、スプリングを軋ませながらもソファは受け止める。

 そのまま寝入ってしまいそうなロワの様子を見て、眉を顰めたシェリーは傍に近付いていく。


「ちょっと、寝るなら自分の部屋で寝なさいよ」

「んー……」


 声を掛けながら肩を揺さぶれば、ロワは眉間に皺を寄せた。肩を掴む手を鬱陶しそうに払い退ける。

 邪険に扱われて僅かに苛立ったシェリーだったが、一瞬放っている間にも意識を手放しそうなロワの姿に、流石に喧嘩腰になるのは堪えた。


「ほら、そんな所で寝たら休まらないでしょ?」

「あー……」


 片腕を掴んで立たせようとすれば、漸くロワは起き上がった。

 そして、今にも閉じそうな目を擦りながら、ふらふらと危なっかしい足取りで廊下を目指す。


(……大丈夫かしら?)


 どうやら、二階の自室に向かおうとしているらしいその姿は、誰がどう見ても疲れ切っていて、相手がロワであるにも関わらずつい心配を抱く。

 すると、階段の方から重たい物が転がり落ちる音が響いてきた。


「な、何っ!?」


 驚いたシェリーが慌てて其方に向かえば、階段の下で仰向けになって転がっているロワがいた。


「ちょ、ちょっと! しっかりしなさいよ!」


 魔王とは思えない体たらくに、呆れる前に戸惑いが生まれる。頬を何度か叩いてみても小さく唸るだけで、目を覚ます気配は無い。


「っ、ああもう、世話が焼けるわね……っ!」 


 どこにも怪我が無いのを確認したシェリーは、ロワの片腕を自分の肩に回させて立ち上がった。身長差の所為でどうしてもロワの足を引き擦る事になるが、そんな事はいちいち気にしていられない。

 流石に階段を上がるのは難しかったので、リビングまで運んでソファに寝かせてやった。


「もう、どうしたっていうのよ……?」


 シェリーは念のために回復魔法を唱えてやりながら、寝息を立てているロワを見つめる。

 すると、不意に爽やかな香りが鼻を擽っていった。


「……?」


 ハーブのような爽やかなその香りに、思い当たる節が無いシェリーは首を傾げる。

 一体どこからと鼻を利かせながら辺りを見回せば、香りの元は直ぐに見つかった。


(……うん、やっぱり魔王からね)


 鼻先を近付けて確認しながら、シェリーは怪訝そうに眉を寄せた。

 自分と同じ風呂に入っているのだから、香るとしたら同じ香草の筈である。

 しかし、今はシェリーの趣味で薔薇を使っているので、ロワからこんな爽快な香りがする筈が無かった。

 そうなると、導き出される答えは一つ。


(何処かでお風呂に入ってきたって事よね……? でも、どうして外で……?)


 理由が分からず、シェリーの眉間にはどんどん皺が増えていく。


「ん……」


 そうして色々と考えているうちに、ロワの口から小さな声が漏れた。長い睫毛が微かに震えて、ゆっくりと持ち上げられた目蓋の下から金の瞳が現れる。

 目覚めた事に秘かに安堵したシェリーは、それを悟られないようにと嘲笑を浮かべた。


「残念、起きたのね。このまま永遠に眠っていても良かったのに」

「…………」

「覚えてる? 貴方、階段から落ちて気絶していたのよ。魔王のくせに情けないわね。あまりにも情けなくて呆れる事すら出来なかったわ」

「…………」

「……ちょっと、何か言ったらどう?」


 自分を見つめたまま無言を貫かれて、堪らなくなったシェリーは怪訝そうに眉を顰める。

 すると、ロワはふっと苦笑を零した。


「……お前、今のこの距離、結構凄いぞ?」

「え? ……きゃああっ!?」


 ロワの言葉の意味が分からず、一瞬きょとんとしたシェリーだったが、次の瞬間には理解して大声を上げた。


(ち、近い近い! 近すぎるわよ!)


 どうやら香りを嗅ぐ事に集中しているうちに、どんどん距離を縮めていたらしい。

 二人の顔の距離はかなり近く、相手の瞳に映る自分がどんな表情をしているのかが分かる程だった。


「きゃあっ!?」


 慌てて身を引いたシェリーは、勢いをつけ過ぎた所為でそのまま後ろにひっくり返ってしまう。

 それでも咄嗟に手を付いたので、頭を打たずに済んだ。


「っ、はは! 動揺しすぎだろ、お前!」


 起き上がったロワは腹を抱えて笑う。

 リビングに響く盛大な笑い声にシェリーは顔を真っ赤にして、恥ずかしさで体をぷるぷると震わせた。


「わ、笑うのをやめなさい! この馬鹿っ!」

「うおっ!?」


 跳ね起きたシェリーはすかさず拳を繰り出す。

 それをロワが間一髪で避けると、愛らしい顔を忌々しげに歪めて舌打ちをした。


「貴方なんか階段の段数を間違えて、毎回足がガクッってなればいいのよ!」

「地味に嫌だな、それ!」

「あ! 待ちなさい、魔王!」


 身の危険を察したロワはソファから降り、一目散にリビングから逃げ出していく。

 シェリーは香りの件を尋ねる事をすっかり忘れて、拳を振り上げながら追いかけたのだった。


 ***


 また、別の日のリビングにて。

 口喧嘩からゲームという、すっかりお馴染みとなった流れに乗って、二人はトランプで勝負をしていた。

 難しい顔をしたシェリーは、向かいに座るロワの手札を凝視しながら口を開く。


「ねえ、どれがジョーカー?」

「それ言ったらゲームにならねえだろ」


 馬鹿か、と鼻で笑ったロワは、しかめっ面で悩んでいる相手の額をこつんと小突く。

 シェリーはその手を払い、赤い唇を軽く尖らせた。


「だって、毎回引き分けで終わるんだもの」

「それはお前が『勝ち逃げなんて許さないわ!』とか言って、勝負を終わらせないからだろ」

「貴方だって『もう一回続けて勝てば負けを認めてやる』とか言って、引き延ばすじゃない」

「「…………」」


 互いに返す言葉が見つからず、口を噤む。

 少し気まずいような、何とも言えない空気を感じたシェリーは、とりあえず素直に相手の手札に手を伸ばした。


(……あら?)


 一番端のカードを引こうとして、ふと気付いた。


(指輪が無い……?)


 手札を持つロワの左手、そこの薬指に結婚指輪が見当たらない。

 つい最近まで、ロワが自分と同じように指輪を填めていた覚えがあるシェリーは首を傾げる。


「ねえ貴方、指輪は……」

「おい、さっさと引けよ。迷ってても勝てねえぞ? それとも今日こそ負けを認めるか?」


 口を開いたのとほぼ同時に、ロワが言葉を重ねた。

 シェリーは挑発めいたその言葉を聞き流せず、ぴくりと片眉をつり上げる。


「ふん、負けるのが怖いからって、つまらない冗談は止めてもらえるかしら?」


 見下すような笑みで言われて、今度はロワが眉を動かした。挑発に煽られた頬が小さく引きつる。


「……今日こそ決着つけてやるよ。言い訳も出来ないくらいに完璧に叩きのめしてな」

「その言葉、そっくりそのまま返してあげるわ」


 鋭い視線をかち合わせて火花を散らし、二人揃って口元をにやりと歪める。一瞬でも隙を見せれば、相手の喉に食らいついても不思議ではない。

 そうしてシェリーは、ゲームの方に集中力を全て持って行ってしまい、香りの件と同様に、指輪についても聞くのを忘れてしまったのだった。

 

 ***


 そして、また別の日。


(……喉渇いたわ)


 夜中にふと目を覚ましたシェリーは、水を飲みに行く為に部屋を出て、階段を下りていった。

 キッチンに行くには、リビングを通る必要がある。なのでシェリーは暗い廊下を歩き、リビングに続くドアを開けて足を踏み入れた。


「ひっ……!?」


 すると、暗い部屋の中でソファに何かがいるのを見つけて、思わず上擦った声を上げる。

 しかし、眠気の覚めた目でまじまじと見つめてみれば、それは寝転がって眠っているロワだった。


「な、何よ……驚かせないでよね……」


 得体の知れない物の正体が分かり、シェリーは驚いて大きく跳ね回っている心臓を押さえながら呟く。


「もう、寝るなら自分の部屋でって言ってるのに……。風邪ひいたって知らないんだから……」


 軽く尖らせた唇から文句を零した後、続けて呪文を唱える。すると、シェリーの前に小さな光の玉が現れた。

 小さいながらも眩い光を放つ玉のお陰で、暗闇に包まれていたリビングは、手元が分かる程度まで明るくなった。

 そうしてキッチンに向かい、水差しからコップに水を注ぐ。一気に飲み干せば、喉の渇きは簡単に治まった。


「ふう……」


 一息ついたシェリーはコップを片付けて、用の無くなったキッチンを出る。ソファの方に目を向ければ、起きる気配が全く無いロワがいた。

 それを無視してリビングを出ていこうとしたが、あと一歩で廊下に出る、という所でシェリーの足は止まった。


「ああもう、……まるで大きい子供ね」


 以前の小妖精の集落での出来事を思い出しつつ、踵を返してソファの傍に静かに近付く。

 そして、起こそうとした時、ふとロワの首筋に視線が引き寄せられた。


「……?」


 男にしては青白い首筋にぽつんと浮かぶ赤い点。虫さされのようにも見えるが、随分と歪な形をしている。


(痣にしては小さいし……?)


 その赤い点を眺めながら首を傾げる。

 しかし、そのうちに眠気が再びやってきたので、シェリーは小さく欠伸をするとロワの頬を軽く叩いた。

 するとロワの目蓋が震え、ゆっくりと持ち上がった。


「ん、あ……?」

「ほら魔王、起きなさい。寝るなら自分の……」

「あー……マーサ……?」


 目が合ったと思った次の瞬間、聞き覚えの無い名前が、まだ微睡んでいるロワの口から漏れた。


「……え?」


 唐突に呼び間違われたシェリーはきょとんとする。

 そして、それは一体誰だと質問する前に、ロワの目蓋は再び閉じてしまった。


(……マーサって誰? 女性みたいだけど……)


 考えてみるも、眠気が邪魔をして思考が纏まらない。

 シェリーは二回目の欠伸をすると、既に二度寝に入っているロワを眠そうな目で見下ろした。


(……まあ、魔王だし、風邪とかはひかないわよね)


 勝手にそう判断したシェリーは踵を返し、リビングを出ていく。

 ドアが閉まって数秒後、浮いていた光の玉は音もなく消えて、微かな寝息だけが聞こえるリビングには再び闇が訪れた。

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