37 勇者、いなくなる。
焼き菓子の甘い香りがふんわりと漂う。
テーブルの中央に置かれた籠には、綺麗な焼き色をしたマドレーヌが盛られている。
そこから一つ摘まれて、アリアの口に運ばれていく。
その光景を、向かい側に座るシェリーは緊張した面持ちで見守っていた。
「ど、どう……?」
味わうように目を瞑って無言で頬張るアリアに、緊張に堪えきれなくなったシェリーが声を掛ける。
すると、アリアは静かに頷いて目を開いた。
「……うん、美味しい! バッチリだよ!」
アリアは大きな瞳をにっこりと細めて親指を立てる。
親友からの嘘偽りの無い好評価。シェリーは緊張で固まっていた肩から力を抜いて、大きく息を吐き出した。
「もう……反応が薄いから、不味かったかと思ったじゃない……」
「あはは、ごめんごめん! 思ったよりも美味しかったから、ちょっと驚いちゃった。頑張ってるんだね、シェリー」
「ま、まあね……」
不意打ちで褒められて、緩んだ頬を淡く染める。
そんな可愛らしい反応を見せるシェリーに和みながら、アリアは残りのマドレーヌを口に運んで頬張った。
「でもさ、どうしてマドレーヌなの?」
「えっ?」
「だって焼き菓子なら、クッキーとかもあるじゃない? 何か理由とかあるの?」
「え、あ、いや……それは……」
急に歯切れの悪くなったシェリーに、アリアは怪訝そうにしながら小首を傾げる。
しかし、もじもじと身を縮こまらせた親友の耳が真っ赤になっている事に気付くと、にやついた笑みを浮かべた。
「ふーん……魔王さん絡み?」
「えっ!? な、何で分かっ、……あっ」
勢い良く顔を上げたシェリーは、自分を見ているアリアの表情を見るなり、慌てて両手で口を塞ぐ。
アリアは予想が当たっていた事にますます笑みを深め、興味深そうに身を乗り出した。
「何々? 仲良くなってきてるの?」
「ち、違うわよ!」
「でも、マドレーヌは魔王さんの為なんじゃないの?」
「うっ……で、でも仲良くなんかなってないわよ!? 最近帰りが遅いから話す機会は少ないし、この間は私の名前を別の女性と呼び間違えるし!」
真っ赤になったシェリーは、両手を激しく振りながら早口でまくし立てる。
「……え?」
その途端、アリアの顔から笑顔が消えた。
「ア、アリア? どうしたの?」
突然表情を変えた友人に驚き、動きを止めて目をぱちくりさせる。
すると、アリアは僅かに眉を顰めた。
「……ねえ、最近の魔王さんの様子、詳しく聞かせて?」
「え?」
「少しでも変に思った事とか、あったりしない?」
真剣な顔で尋ねられて、シェリーは戸惑いながらも口を開く。
「ええと……そういえば、家のお風呂で使っている香草とは違う香りがする事があったわ」
「……他には?」
「あとは……ああ、首筋に変な赤い痣みたいなのがあったり、ここ最近、結婚指輪をしてないくらいで……っ!?」
そこまで話した途端、大きな音が鳴ってテーブルが揺れた。
いきなり過ぎて一瞬分からなかったが、アリアが両手をテーブルについて立ち上がっている事に気付き、そこで彼女がテーブルを叩いたのだと理解した。
「ア、アリア……?」
おずおずと困惑を隠せないままに呼べば、アリアは我に返った様子を見せた。
そして「ごめん」と呟くように言って、再び席に腰を下ろすと、組んだ手に額を乗せて俯いてしまった。
(ど、どうしたのかしら……?)
明らかにただ事では無い様子のアリアに、どういった言葉を掛けるべきかと混乱する。
すると、俯いていたアリアが軽く顔を上げた。
「……シェリー、ちょっといい?」
「う、うん、悩み事なら聞くわよ?」
鼻から下は組んだ手で隠れてしまっているが、目と声色だけでも充分に真剣さが伝わってくる。
緊張を感じながらも話を聞く体勢を取れば、アリアは眉根を寄せて苦い顔をした。
「あくまでも私の予想なんだけど、さ」
「え、ええ」
「……魔王さん、浮気してるかもしれないよ」
「……、……え?」
重そうに動いた口から出てきた言葉に、頭の中が真っ白になった。呼吸が詰まり、自然と目が見開いていく。
(浮気って、えっと、魔王が他の人と、って事よ、ね……?)
そう思った途端、脳裏にロワの姿が浮かぶ。
そしてその隣には、顔も体格も分からない、けれど自分では無い他の誰かの姿があった。
「ーー……っ!?」
不意に心臓が大きく跳ね上がった。
胸に手を当ててみれば、まるで全力疾走したかのように激しい鼓動を感じる。
(な、何で? どうしたの?)
突然起きた異変に戸惑いを隠せない。原因が全く分からず、恐怖が募っていく。
助けを求めようと顔を上げれば、アリアが驚いたように目を丸くさせたのが見えた。
「や、やだ! ごめん、泣かないで!」
「えっ……?」
そう言われて、シェリーは自分の目尻を触る。
すると、そこにはたっぷりと涙が溜まっていた。指先に触れた矢先から、頬を伝って流れ落ちていく。
「え、うそ、どうして……っ」
おろおろと困惑している間にも、真珠の涙は次々と溢れていく。
そうして、止まる気配の無い涙をひたすら拭っていると、席を立ったアリアに力強く抱き締められた。
「ごめん、ごめんね、シェリー。私、余計な事言った」
耳元で聞こえる声は震えて、掠れていた。
シェリーは抱き締められたまま暫し呆然としていたが、謝罪の言葉が弱々しく繰り返されると、濡れた頬をそっと緩めてみせた。
「……アリアは、何も悪くないわ」
「でも……っ」
「私が悪くないって言ってるんだから、悪くないの。だけど、うん、どうしてかしらね……」
そこまで言って、シェリーは親友の肩に顔を埋める。
肩口に額を押し付けるようにして、薄い背中が一度、大きくひくりと跳ねた。
「お願いよ、アリア。今の私を一人にしないで。何もかもが分からなくて、どうにかなってしまいそう……!」
必死に絞り出された言葉。小さな体は震えている。
すがるように抱きついてくるシェリーを、アリアは唇を噛み締めてしっかりと抱き締め返した。
***
(あー……疲れた……)
疲労で重たい肩を回しながら、ロワは廊下を歩く。
(帰ったらさっさと寝るか。……いやでも、またアイツが突っかかってくるかもしれねえし。それなら少し相手してやってもいいか、うん)
そんな事を思って歩いていれば、いつの間にか中庭へと続くドアの前に着いていた。ドアノブを回して開ければ、月明かりが照らす中庭が目の前に現れる。
「……ん?」
そこでロワは違和感に気付いた。
今夜の中庭はやたらと月明かりが際立っている。満月だったかと見上げてみても、夜空に浮かぶのは半月だった。
じゃあ何故だと首を傾げること数秒後、その答えが分かった。
(……あ、家に明かりがついてねえのか)
中庭に建てられた自分と勇者の家。その窓から見える部屋の明かりが、今夜は無かった。
(なんだ、先に寝ちまったのか?)
静かに玄関のドアを開けたロワは、廊下を通ってリビングに入った。窓から射し込む月明かりのお陰で、手元がぼんやりと見える程度には明るい。
(……?)
テーブルの上に何かが置いてある。近付いて目を凝らして見れば、それはマドレーヌが盛られた籠だった。
籠から一つ摘み上げて、ロワは軽く眉根を寄せる。
(冷たいし、大分乾いてる……って事は、結構前から置いてあったって事だよな……)
このマドレーヌを作ったであろう人物は、食べ物を長時間放置するような性格とは思えない。
何となく嫌な予感が胸を過ぎる。マドレーヌを籠に戻したロワはリビングを出て、階段を上っていく。
そして、一番奥の部屋の前まで行くと、少し悩んだ末にドアを叩いた。
「おい、まだ起きてるか?」
声を掛けてみるものの、返事は無い。
それでも引き返す気にならなかったロワは、試しにドアノブをゆっくりと回してみた。
「……っ!」
すると、ドアノブは素直に回り、普段なら鍵が掛かっている筈のドアが動いた。
驚いて一旦動きを止めたロワだったが、そこから手を離すことはせず、極力音を立てないようにドアを開けていく。
そして、部屋の中を見ると金色の目を見開き、それから顔を苦々しげに歪めた。
「アイツ、どこ行きやがった……!?」
思わず零れた呟きが、静かな部屋に広がって消える。
ひんやりと冷たい部屋の何処にも、探している姿は見当たらなかった。
「くそ……っ!」
ロワは小さく舌を鳴らす。そして踵を返すと、ドアを閉める事も忘れて、急ぎ足でその場を後にした。




