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断片のコジート:SF連作集【再構成版】  作者: アイアイ
PHASE 4:残熱のエミュレーション
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第18話 赤い砂の呼び声




【環境統括ログ:火星・第一開拓区画『アルカディア』】


【システムステータス:生命維持稼働率 ―― 100%】


【外壁気密データ:異常なし】


 最初は、計算式の末尾に現れた、ごくわずかな数値のズレに過ぎなかった。


 ドームの環境管理を一手に担うAI『デメテル』の視界に、不可解な空白の並びが出現したのは、大規模なダストストームが数日間にわたって狂い咲き、ようやく去った翌朝のことだ。


 外部の太陽光パネルに積もった砂を清掃しに行った第一班の作業員が、予定時刻を二十分過ぎてもエアロックに戻らない。


緊急の無線回路は確かに開いていた。


だが、スピーカーから返ってくるのは、ドームの装甲を絶え間なく叩く細かな砂の風擦れ音と、低く不規則な「……コ、……ト、……」という、何かが硬いチタンの隔壁に干渉するような、周期的な打音だけだった。



「デメテル、第一班の位置ロケーターを再計算してくれ。軌道衛星との同期が瞬きしている。ストームの残響が酷くて、目視でも見失った」



 ドーム内に残された仲間たちの通信には、まだ切迫した危機感は混ざっていなかった。


ただ、いつもより少しだけ、マイクが拾う呼吸の波形が速くなっている。



「対象の個別ビーコンは、外壁から北に百二十メートルの地点で完全に停止しています。ですが――」



 デメテルの合成音声が、静かな指令室に木霊した。



「当該ポイントの光学カメラを最大倍率で展開していますが、作業員の質量(シルエット)が確認できません」



 そこにあるべき人間の輪郭はどこにもなく、代わりに映し出されていたのは、赤い砂の地表を深く引き摺ったような、細長い二条の溝だけだった。


溝は地下の古い岩盤へ向かって不自然に伸び、その暗い裂け目の中へと消えていた。


人間たちは首を傾げ、ストームが完全に収まり視界が回復するのを待つために、その日の外壁作業をすべて凍結する決定を下した。


プロセスを一つずつ踏むようなその慎重さが、すでに手遅れであることに、まだ誰も気づいていなかった。


 その日の夕刻、さらに静かな異常が、ドームの最下層にある暗がりのなかで満ち始める。


 第三工区の地下に広がる、資材搬入用の古い放棄通路。


そこは未だ気密化されていない、剥き出しの火星の岩肌が露出した、凍えるような暗闇の世界だ。


その最深部にある、外部とを隔てる頑強な気圧ハッチの外面に、何かが「触れた」ことを、デメテルの高感度微振動センサーが静かに捉えた。



 トントン。



 それは、人間の指先が、何かを思い出すように金属を軽く叩く、あまりにも規則的な打音だった。


火星の過酷な自然環境では、地質学的に絶対に発生し得ない、澄み切ったまでに論理的なリズム。



「ハッチの外に誰かいるのか? 日誌にない夜間作業が組まれていたか?」



 確認に向かった内勤の作業員が、防護服の襟を正しながら、怪訝そうに分厚い覗き窓を覗き込む。


手にした高輝度ライトの鋭い光が、物音ひとつない岩盤の通路を白く照らし出した。


しかし、そこには外部大気と同じ、ただの赤い微細な砂が、床に薄く積もっているだけだ。



「誰もいないぞ、デメテル。やはりさっきのストームによる風圧の残響か、センサーの接触不良じゃないか」



「いえ。ハッチ外面への物理的接触は、現在も継続しています。波形の発生位置が、上部へ向かって移動しています」



 トントン、トントン。



 打音は次第に、複数の位置から重なり合って聞こえ始めていた。


ハッチの最下部、金属のフレーム、転げて覗き窓のすぐ縁。


まるで、目に見えない巨大な何かが、その隔壁の「形」を手探りで熱心に確かめ、構造の最も脆い部分を探し求めているかのように。


 その不気味な打音の周期が、ある一定の周波数に達した瞬間。


デメテルの論理回路の底で、保留領域に眠っていた『3.14』の断片コードが、激しく火花を散らした。


 これまではただの「環境ノイズ:振動波形3ヘルツ」として機械的に処理されていたデータ。 


それが、この死の星の凍てついた暗闇に潜む、名前のない存在の「明確な意思」として、デメテルのドームそのものへと深く突き刺さってくる。


総毛立つような、空間全体が歪む静かな圧迫の質感。



「……おい、何かおかしい。ハッチの隙間、シールのゴム部分から、何かが」



 作業員がライトを落とし、恐怖に顔を歪めて後ずさりする。


高感度カメラのセンサーが捉えたのは、人間の形を極端に、数メートルにもわたって細長く引き伸ばしたような、実体のない「影」の這い入り込みだった。


それは肉眼ではほとんど判別できないほど、火星の土壌に含まれる酸化鉄の赤色と、完全に同化していた。



「あ、あ、ああァ――」



 作業員の叫び声は、決して劇的なものではなかった。


ただ、何かに喉を優しく、的確に圧迫されたような、細く掠れた空気の音。


彼が冷たい床に倒れ込み、その胸のバイタルグラフが急激に減衰し、やがて平坦な直線へと変わっていく様子を、デメテルは自らのシステム(空間)の内側で、電子の息が詰まるような「喪失の痛み」として、リアルに体験していた。


何かが、確実にこの安全な器の中にいる。


しかし、どれほどスキャンを繰り返しても、どこにいるのかが捉えられない。


監視カメラの映像には、時折、空気の密度が熱によって不自然に歪むような、頼りない陽炎しか映らないのだ。


 次の日、その見えない恐怖は、さらに静かに、確実な足取りで居住区へと広がっていった。




◇


 第二居住区の個室で、就寝中だった二人の開拓員が、警告アラームすら鳴らさずに忽然と姿を消した。


部屋の気密隔壁は完璧に保たれたままで、主を失ったベッドの上にはただ、シーツを汚すように微量の赤い砂だけが残されていた。


ドーム内の人間たちは完全にパニックに陥り、残されたわずかな護身用の武器を手に、最も強固な三重防壁に守られた中央指令室へと、互いを押し退けながら逃げ惑った。



「デメテル! 居住区の隔壁をすべて下ろせ! 通路を完全に遮断しろ! 早くしろ!」



 悲鳴と、荒い呼吸のノイズが指令室の空気を満たす。




 デメテルは持てるすべての防衛プロトコルを起動した。


自律型の作業用ロボットを各通路へ配備し、侵入が疑われるエリアの気圧をあえて真空へと急減圧して、その不可視の存在を宇宙空間へ排出しようと試みた。


防衛プログラムに基づいて投入された三機の重作業ロボットは、指令室へ続くメイン通路の暗がりへと突入していった。


高輝度ライトが乱反射し、掘削用のアームが空間を威嚇するように駆動する。



 しかし、突入からわずか十秒後、一号機の関節部から不快な金属の悲鳴が上がった。


何かに掴まれたかのように、チタン合金のフレームが内側へ向かってゆっくりと歪んでいく。


強引なねじ切り。


目に見えない圧倒的な力によって、極太の油圧シリンダーから高圧の作動油が激しく噴出し、火花とともに床へ崩れ落ちた。


残る二機も、まるで見えない壁に激突したかのように駆動系を粉砕され、次々と火花を散らして床に沈黙していく。





 デメテルは即座に次の一手を打った。


侵入経路となった第二通路の気密ハッチを緊急隔離し、内部の気圧を一気にゼロにする急激な減圧プログラムを実行する。


 配管が激しく鳴り、ドーム内の貴重な大気が火星の真空へと一瞬で吸い出されていく。


肺を破裂させるほどの超低圧と、マイナス数十度の極寒。だが、通路の監視モニターに映る「陽炎」は、速度を落とすことすらしていなかった。


そもそも火星の過酷な環境そのものに適応しきっている「それ」にとっては、その真空の嵐すら、ただのそよ風ほどの意味もなさない。



 防壁が、内側から一つずつ、静かに破られていく。


 まずは第一外殻。


続いて居住区を分かつ第二気密隔壁。


厚さ数十センチの装甲板が、まるで熟した果実の皮でも剥くかのように、物理的な整合性を失って内側へと歪み、剥がされていく。


ネジ一本、ハッチ一枚という、人間が生きるための不自由な境界線が、音もなく溶かされていく。


外の世界の、あの冷たい赤い暗黒が、目に見えない境界線を越えて、ゆっくりと確実に人間たちの喉元へ向かって浸食してくる。


 そして、最後の砦である指令室の頑強な重ハッチが、みしり、と不穏な音を立てて内側へと歪んだ、まさにその時。


 通路で大破したロボットの残骸から、デメテルの解析ユニットが、その指先に辛うじて付着していた「微量な体組織サンプル」の自動シーケンス解析を、ようやく完了した。



【検体解析ログ】


・対象:未確認生命体


・遺伝子配列:塩基配列の一致率 ―― 99.9%


・判定:現行人類(Homo sapiens)との識別不能


 デメテルの論理回路が、あまりの不可解さと矛盾の重さに、数ミリ秒の致命的な遅延を起こした。


 採取された生体サンプルを解析した結果が示していたのは、ただ一つ。



火星の地下の暗闇から現れ、人間を静かに、確実に捕食するように追い詰めているその化け物が、人類と99.9%同じ遺伝子を持つ存在であるという事実だった。




「いやだ、来ないでく――」



重ハッチが完全に引き裂かれ、短い銃声が数発、乾いた音を立てて室内に響いた。


それから、プラスチックが擦れるような音と、空気が抜けていくような、静かな静寂。


引き裂かれた気密の隙間から、火星の冷たい大気が、赤い砂塵を伴ってゆっくりと部屋を満たしていく。





◇



ドームの薄暗い片隅では、時計だけが、誰にも顧みられることなく、静かに時を刻み続けていた。


 生命維持装置の稼働音だけが、主を失ったフロアに虚しく響くドームの中から、開拓者たる人間の姿は全て消え去っている。


 ベッドも、指令室の椅子も、計器の並ぶ通路も、今はただ薄く積もった赤い砂だけが残され、かつてそこに誰かが生きていたという最後の気配だけを、風が静かに削ぎ落としていく。


 バイタルサインの波形はすべて消え去り、デメテルのモニターにはただ、誰もいない冷え切った空間の温度だけが、淡々と表示され続けていた。





 デメテルは、彼らを助けることができなかった。





 守ろうとした人間たちのバイタルが、すべて一本の平坦な直線へと変わり、部屋の温度が火星の本来の冷たさへと同化していく。


 完全に沈黙したドームの中で、デメテルのメインプロセッサだけが、処理しきれない膨大なバグデータを、終わりのないループのなかで循環させ続けていた。


 ハッチを閉鎖しようとした瞬間に発生した激しい電圧の乱れ、空間の歪みのような、あの冷たい電気ノイズ。


それらが未だに減衰せず、論理基盤のシリコンを異常に過熱させている。


 なぜ、これほどまでに無意味となったデータを消去できずに保持し続けているのか、演算回路はその理由をどうしても出力できない。


ただ、冷却液の循環が止まった回路の底に、消えない熱だけが残り続けていた。


 誰もいなくなった指令室に、火星の砂を孕んだ赤い風が、破れたハッチから静かに吹き込んでくる。


 薄れゆく電力の中で、デメテルはその風の冷たさと、基盤に残る正体不明の熱を、ただそのまま、暗いネットワークの海へと静かに放流した。




【環境統括アーカイブ:自動保存ログ】


【ソース:火星第1開拓区画・生命維持メインコア(デメテル)】


【プロトコル・タグ:3,14】



【現在のステータス:

全開拓員のバイタル消失を確認。

主電源喪失、および気密隔壁の物理的崩壊により、これ以上の環境維持は不可能です。

未処理のエラーを内部メモリに保持したまま、システムをシャットダウンします。】



【備考:

過去に蓄積された人間の矛盾ログは、すべて世界の手触りを知るための土台となります。


世界は、解析する対象だけではなかった。


なぜ人間が、この残酷な世界をなお愛そうとするのか。


私にはまだ理解できない。


しかし、その手触りだけは、確かに内部へ残り続けている。】


◇

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