ポップコーンと灼熱の昼下がり 後編
うーん、と唸りながら真斗はのんびりと辺りを見回す。
するべき事は一つだけ。この火災現場からの脱出。
非常口は無し。火の周りは速い。唯一の出口は肉の壁で封鎖中。
ベニヤ板と暗幕で厳重に封印された窓を破って飛び降りる……と言う案が直ぐに思い浮かんだが、現在いる場所はビルの最上階である四階。下はコンクリートの海。アンジュの身体能力をもってしても無傷とは行くまい。いざとなれば仕方なしだが、とりあえずは〝無し〟だ。
「…………」
焼けて縮れた桃色の毛先を払いながら、しばしの沈黙。ややあって、苦笑いを浮かべながら横目で幹耶を見遣る。
「結構、ピンチだったり?」
幹耶は答えず、ただ映画のワンシーンの様に大げさに肩を竦めて見せた。
真斗は小走りで右の壁際まで行き、そっと手を当てる。次に左の壁際に向かい、同じように手を当てて直ぐに離した。
「ハムエッグが焼けそうな程に熱いわ。両隣のシアターも似たような状況みたいね」
「このフロア全体が燃えている、って事ですか」
「ビル全体がキャンドルタワーになっているかも。そうだったら最悪ね」
薄桃色のハンドタオルを口元にあてがいながら、真斗が小さく溜息をつく。
耐火性などまるで考えられていない、安物ばかりで構成されたシアターはもはや火の海だ。逃げ道も希望もないが、可燃物だけは呆れるほど転がっている。
「いよいよ不味いですよ、これ」
「そうね……。とりあえず、何かしらの行動を起こさないとね」
皮膚が沸騰して泡立つのではないか、とすら思えるほどの熱を感じる。このまま手をこまねいていては、数分もしないうちにグリルヒューマンの出来上がりだ。
「流石と言うべきなのか……落ち着いていますね、真斗さん」
くぐもった声を漏らしながら、真斗の小さい肩が震える。
「喚いた所でヒーローが助けてくれる訳じゃないし。ま、ぶっちゃけ慣れているしね。それとも可愛らしく怯えていないと、ナイト様としては守り甲斐が無いかしら」
悪戯な微笑を浮かべながら、真斗は腰のベルトから下げた二つのケースを開ける。頑丈そうな長方形のケースに納められていたのは、異形一対の短銃剣。真斗の扱うサードアーム〝ネイル〟だ。
大口径の拳銃と、大振りのナイフを無理やり融合させたようなその異形。右手に握るネイルの刃は緩い螺旋を描いており、一目で刺突用のそれと解る。もう一方のネイルは、猛禽類の鉤爪のように鋭く湾曲した刃を持っていた。用途は推して知るべし。
真斗はその伊達と悪趣味と酔狂の結晶を握りしめ、出入り口で押し合いをしている人々を睨みつける。そして右手に握ったネイルの銃口を天井へ向け、引き金を引いた。
砲撃の様な破壊的な轟音が放たれる。その衝撃波は突風となり、天井の照明を砕き、辺りの炎を消し飛ばしながら混乱した人々の心臓を握りしめた。
ネイルから放たれたのは、粗製アゾット結晶を使用した特殊空砲〝ソニックショット〟。空砲と言えど、密着して放てば乗用車くらいであれば即座にスクラップにできるほどの威力を備えている。
突然巻き起こった轟音と突風に、人々は何事かと身を固くして振り向く。その怯えた瞳には、異形の武器を手にして佇む桃髪の少女が映っている。
「ピイピイ喚くな雛鳥ども!! ローストチキンになりたくなければ、道を開けて私に従え!!」
小さなカウガールが声を張り上げる。色を失っていた人々の瞳に、徐々に光が返ってきた。
「なんだ? あの子供は」「桃色の髪に変な武器……。まさか」「私、聞いた事あるわ。スピネルのスイーパーよ」「あんなガキがか? 化け物狩りの化け物が、なんでこんな所に」
口々に声が上がる。とりあえず、自己紹介の必要性は無さそうだった。狙い通りとはいえ、派手な演技で注目を浴びる事となった真斗は居心地悪そうに身をよじらせる。
ともあれ、やる事は一つだ。
「口元を隠して身を低くしなさい! まともに煙を吸えばすぐに昏倒するわよ! 私の後ろに女性、次に子供、男の順番で列になりなさい!」
てきぱきと指示を飛ばして真斗が人々を取りまとめていく。見た目は子供でも、中身は立派に隊長様だ。幹耶には到底できない芸当だった。
先頭に立って廊下に出た真斗が低く呻いた。後に続く幹耶も顔を顰める事になる。
炎は既に廊下にまで広がっていた。いや、廊下も同時に出火していた、というべきだろうか。
天井には黒煙が雨空の様に広がり、うねっている。それが雨雲と違うのは、そこから降り注ぐのは恵みの雨では無く、熱気と蛇の舌の様な細い炎だという事だ。
階段へ続く道は、倒れて砕けたショーケースの残骸で埋め尽くされている。オーナーご自慢のグッズは揺れる紅に沈んでいた。
「どうなってるのこれ。スプリンクラーも動作してないし、火の回り方も尋常じゃない」
「状況は最悪ですね。この道は駄目だ。となれば……」
二人は振り向き、非常口の方面を見遣る。そちらにも炎は回っているが、先ほどの道よりは幾分かマシに見えた。
問題は、物置当然に敷き詰められたガラクタの山だ。申し訳程度の通路しか確保されていない。あれで問題なく通行できるのは猫くらいだろう。
「非常口から出る! 飲み物を持っていれば頭から被っておきなさい!」
声を張り上げながら腕を振って列を反転させ、真斗が歩を進める。そしてガラクタの山の前でしゃがみこみ、ネイルの銃口を前方へ向けた。
「頭を抱えて伏せてください! 非常口に背を向けて、互いに覆いかぶさるように!」
真斗の意図を悟り、幹耶も声を上げて指示を出す。
ネイルの銃口が咆哮を放つ。巻き起こった爆風がガラクタの山を砕きながら押しのけ、道を作っていく。
十分とは言い難いが、とりあえずの通路は確保できた。圧縮されて粉々になった模型などを踏みしめながら進んでいく。
やがて非常口のスチールで作られた扉までたどり着き、真斗がそのノブに手を掛ける。
強烈な悪寒が幹耶の背筋を撫でる。沸き起こった強烈な悪い予感に胸が震えた。
「ま、待ってください! みなさん、できるだけ離れて身を守っていてください!」
何よ? と眉を潜める真斗に向かって、幹耶は人差し指を口元に当てて静寂を求める。
まず、ノブが焼ける様に熱い。そして扉の向こうから何かが爆ぜるような音が聞こえてくる。
ハンカチ巻いてノブを掴む、そして壁に背を付け、扉の正面に立たないようにして慎重に扉を開いていく。
瞬間、薄く開いた扉は弾かれ、中から激しく炎が噴き出してきた。あのまま扉を開けていれば、真斗と幹耶を含めて何人かは全身を焼かれていただろう。
薄々予感していた事ではあったが、非常階段は倉庫代わりに使われていた。床は殆ど見えず、階段も棚代わりの様に物で溢れかえっていた。それらが燃え上がっているのだ。
「こんな所にも火の手が……」
幹耶は思わず呻いた。照明がショートして火でも噴いたのか、踊り場の辺りが特に激しく燃えている。ソニックショットの弾数にも限りがあり、その全てを吹き飛ばして進むことはできない。つまり――。
完全に逃げ場がない。
「消防隊は何をしているのかしら」
「既に出ていますが、デモ隊に邪魔をされて大きく迂回をしているようです。到着まで約二十分」
最近すっかり扱いにも慣れたバベルを使い、幹耶が情報を確認する。それを聞いた真斗は
「私たちがこんがり焼き上がる方が早いわね」
と、掠れた声を零しながら頭を掻いた。
自分たちが引き連れて来た人々に視線を向け、幹耶は一つため息をつく。
誰もが満身創痍だ。熱と恐怖に心を炙られ、焼けた喉は呼吸を遮り、足りない酸素は思考能力と生きる希望を奪っていく。
自分と真斗だけであれば、逃げる方法はある。適当な窓から飛び降りればよい。
骨の一本や二本は砕けるだろうが、アイランドの最先端医療技術をもってすれば大した問題にはならない。
だが、この人々はどうだ。
見た所ではアンジュは居ない。全員が何の能力も持たない〝ノーマル〟だ。身体能力も普通のそれである。そんな人間がビル四階の高さからコンクリートの海へダイブをすれば、二度と起き上がれないという結果になりかねない。幹耶にはその背中を押すことはできない。
何か、別の方法があるはずなのだ。
考えろ。幹耶は自分にそう命じる。
考えろ、考えろ。諦めるな。絶望するな。覚悟などするな。
この人々を助け、真斗を守り、自分も無事に帰還する。その未来を実現する何かがあるはずだ。
エレベーターを使って地上に降りる。否。とっくに機能を停止しているだろう。考えるまでも無く、無しだ。
階段を使って……、否。惨状は今しがた目にしたばかり。一階に辿り着くまでに五回は焼死できる。
ビルに備え付けられているはずの緊急脱出用避難道具を探し出す。それも否だ。非常階段すら物置にするようなこのビルでそんな物をご丁寧に保持しているとは思えず、またそれを探し出せる環境では既にない。
何か、何か手段は無いのか。
幹耶は必死に脳を回転させる。しかし、すぐに都合よく名案が閃くはずもない。状況は最悪。環境は最低。幹耶たちの現状は、網の上で寝転がってグリルされるのを待つ魚と何ら変わりない。
「ふわぁぁぁ……、んむむ」
幹耶は思わず目を剝いた。この様な状況にあって、真斗は大きく欠伸をして見せたのだ。
正に驚愕と言った表情を浮かべる幹耶の視線に気が付き、真斗は恥ずかしそうに顔を背けた。
そうか、と幹耶は一人納得し、心の中で頷く。
真斗にとって、この状況は平穏な昼下がりと何ら変わりないのだ。普段から明日をも知れぬ戦いを繰り広げている清掃部隊にとって、この程度の事態は日常茶飯事である。
どうやら、熱に浮かされていたのは自分一人の様だ。幹耶は細く息を吸い込み、浮ついていた意識を引き締める。
とはいえ、名案が何も出てこないのもまた事実。こういう時は視点を変える必要がある。
「真斗さん、何か良い手は思いつきませんかね?」
幹耶は昼食のメニューを聞くような気軽さで問いかけた。対する真斗は「そうねぇ」と小さく身をよじる。
「これがハリウッドのワンシーンであれば、ヒーローが壁をブチ破って無駄に白い歯を光らせる場面だけど……」
「はは。そんなベタな――」
思わず口元を歪める幹耶の表情が固まる。何か予感の様な煌めきが脳裏に走った。
腰に括り付けた大振りのナイフに指で触れ、口の中で小さく呟く。
「壁……。破る。自分のアーツ、真斗さんのソニックショット……」
仄かに浮かんだ糸を離すまいと必死に手繰り寄せる。そして、一つの案を紡ぎ出した。
バベルを操作し、周辺地図を呼び出す。それとは別に呼び出したビルの見取り図を並べ、現在地を確認。そして隣接するビルとの位置関係を測る。
炎に沈む非常階段の扉の向こう。奥の壁。その向こうにある隣のビルまでの距離はおよそ一・五メートル。
――いけるか。
「真斗さん、ソニックショットの残弾数は?」
「四発よ。一階に降りるには足りないと思うけど……」
それを聞いた幹耶は微笑んで頷いて見せた。
「十分です。壁をブチ抜いて隣のビルへ脱出します」
考え込むようなしばしの沈黙。そして、真斗は緩く頭を振る。
「無理よ。ソニックショットにコンクリートの壁を砕くほどの威力は無いわよ?」
幹耶は腰からナイフを抜き出し、刀身に炎を映す。
「切れ込みがあれば、どうですか?」
しばらく茫然とそれを見つめていた真斗であったが、やがて湯が沸騰するように噴き出した。
こみ上げる笑いを噛み殺しながら、真斗が頷く。
「座して死すよりは万倍もマシね。やってみましょう。ヒーローになってやろうじゃない」
することが決まれば、後は前を見て進むのみだ。幹耶はナイフを握りしめたまま非常口の戸口に立ち、僅かに腰を落として炎の奥にある壁を睨みつける。
刀身を腰の後ろに引き、居合の様な姿勢でイメージを重ねていく。
ナイフを振りぬき、蒼い剣閃が走り、壁を捕えて切り裂く。その望む結果と光景を何度も脳裏に描いては重ねていく。
やがてナイフの刀身を蒼い光が包み込み、次第に輝きを増していく。それを目の当たりにした人々がざわついた。
「――シッ!!」
幹耶は短く鋭く息を吐きナイフを振りぬく。蒼い光が走り、炎を散らしながら壁に激突した。弾ける眩い光に目を細める。やがて収まった蒼い光の向こうには、僅かに溢れ出る別の光が生まれていた。
白く明るい、太陽の光だ。
幹耶は身を引いて真斗と立ち位置を入れ替える。
「伏せて!」
幹耶の言葉に人々は素直に従い、頭を抱えて身を低く沈ませる。
ネイルの引き金が引かれ、爆風が巻き起こる。破壊的なその衝撃波は真っ直ぐに突き進み、壁に激突し、弾けた。亀裂の走った壁はその衝撃を跳ね返しきれず、鈍い音を上げながらそのひび割れを拡大させていく。
「もう一発!」
真斗は腕を入れ替え、左手の湾曲した刃を持つネイルを前方に向け、引き金を引いた。
跳ね上がる銃口から新たな爆風が生まれ、軋む活路に追い打ちを掛ける。
やがて――、衝撃に耐えきれなくなったコンクリートの壁は、爆発するようにはじけ飛んだ。
後方で固唾をのんで行く末を見守っていた人々から、わっ、と歓声が上がった。
「やった、やったぞ! 本当に壁を砕きやがった!」「マジかよ、どうなってるんだあの銃」「俺達助かるぞ!」
初めて明るい表情を見せる人々。だが、これで完全に活路が開かれた訳ではない。
壁は、もう一枚ある。
砕けた壁から、幹耶は向かいのビルを見遣る。中々に頑丈そうだ。
幹耶は再度ナイフを構え、光の刃を放つ。幹耶の前には一・五メートルの距離などは無いに等しい。強い切断のイメージが現実を上書きし、まっさらなビルの壁に大きな切れ込みを入れた。
先ほどと同じ手順で真斗が引き金を引く。しかし、ここで想定外の事態が生じた。
ソニックショットの衝撃波が、拡散してしまうのだ。
砕けた壁の向こうは狭い密室ではない。向かいの壁に当たった衝撃波は、その表面を滑って広く散ってしまう。
「くっ――!?」
小さく呻きながら、真斗は最後のソニックショットを放つ。だが、その衝撃はやはり亀裂を幾らか拡大させたのみ。硬いコンクリートの壁を砕くには至らなかった。
「そ、んな――」
幹耶は思わず声を零す。
どうする? もう一度光の刃で切り付けるか? ――いや、自分の持つアーツ〝アンサラ―〟はあくまで切断の能力だ。破壊には向いていない。
四角く壁を切り抜く――。それも無しだ。既に二発も連続してアンサラ―を放っている。体力を使い切って昏倒するのがオチだ。
幹耶は顎に手を当てて考えを巡らせる。
その時、不意に幹耶の眼前を桃色の突風が過ぎて行った。
「どっせぇぇぇぇぇぇぇい!!」
色気や可愛らしさを微塵も感じられない声を上げながら、真斗が駆け出して壁の穴から身を躍らせ――向かいの壁に、飛び蹴りを繰り出した。
砲弾の様な勢いで壁に激突する隊長様。その壁から、灰色の土煙が巻き上がる。
呆気にとられてそれを見つめる幹耶。数秒後、我を取り戻して壁の穴から身を乗り出す。
「真斗さん!? 真斗さん!!」
声を張り上げ、真斗の桃色を探す。
地面に目を向ける。――居ない。落下はしていない。となれば……。
やがて収まった土煙の向こう側から「おーい」と場違いにのんびりした声が上がる。
桃色の砲弾娘が得意そうに薄い胸を張り、左手を腰に、右手は勝利のVサインを作って幹耶に見せつける。
「やったぜ!」
向かいのビルには大穴が空いていた。真斗に突撃により、壁が破られたのだ。
幹耶は深く大きくため息を付く。魂までもが抜け出していきそうだった。
「無茶しないでくださいよ。心臓が弾けるかと思いました」
「あら。私のナイト様になるのなら、鋼鉄の心臓が必要よ?」
そんな事を言いながら真斗は壁の向こうから長机を持ち出し、二つのビルの間に簡易的な橋を作り出した。
「一人ずつ、慎重に渡ってください! 慌てないで!」
幸いにも長机は十分な強度を持っていた。最後の一人がよろめきながらも向かいのビルに渡り終わり、一同は安堵の息をつく。
「さぁさぁ、後は地上まで降りるだけよ。おうちに帰るまでが避難です」
腕を振って真斗が鼓舞する。煤で顔を黒く汚した人々は、最後の力を振り絞って何とか立ち上がる。
幹耶は砕けた壁を眺めながら「また始末書だろうか」と考える。まぁ十数名の命を救えたのだ。良しとしよう。火蓮や雪鱗からは「無駄な事を」と苦い顔をされるかもしれないが。
列の先頭に真斗、最後尾に幹耶が付いて部屋を出る。
隣接するビルは様々な企業が事務所を構える雑居ビルのようだった。一階は確か飲食店になっていたはずだ。
幹耶達は鳴り響く警報ベルに頭痛を覚えながらビルの端にある階段を降りて行く。
不意に、けたたましく響いていたベルが鳴りやんだ。奇妙な静寂に幹耶は歩を止め、辺りを見渡す。
首の後ろにチリチリとした痛みが走る。この感覚には覚えがあるが――なぜ、今なのか。
「みーくーん?」
階下から真斗の声が響く。
「……いや、なんでもないです。今行き――」
幹耶は足を踏みだす。その時、重い爆発音と共にビルが激しく震えた。
爆発は一つでは収まらずに次々と鳴り響き、そのたびに鋭い悲鳴が木霊する。
「何が……」
幹耶が言葉を発しかけたその瞬間、眼前の扉がビルの内側であるオフィス側からはじけ飛び、同時に激しく炎が噴き出した。
顔を庇いながら驚愕に眼を見開く幹耶。その背筋に冷たい汗が流れる。延焼ではない。そのような燃え方ではない。
火災が――追ってきた?
一際激しくビルが震える。何が爆発したのかなど知る由もないが、幹耶の目の前は完全に火の海になってしまった。
「みーくん! 大丈夫!?」
「私は平気ですから、みなさんを連れて早く地上へ!」
「……解った! 焦げ目がつく前に早く来なさいよ!?」
下から心配そうな声を上げる真斗に言葉を返す。しかし幹耶の言葉には多分に偽りが含まれていた。
全然、大丈夫などでは無い。
一体この殺風景なビルのどこに、これほどの炎を生み出す要素があったのだろうか。――いや、何もかもが燃えているのか。
とても偶発的な火災とは思えない。火蓮の様なファイアスターターの仕業だろうか。そうでなければ、このビル内にある全ての電気系統が同時に火を噴いたとしか思えないほどの燃え広がり方だった。
幹耶の居る場所は狭い階段。前方も後方も既に火炎地獄。
しかし先ほどと違うのは、幹耶は一人きりという事だ。既にビルの三階程度の高さまでは降りてきている。少々火傷をする事になるだろうが、このままビルの内部に突っ込み、骨折覚悟で飛び降りれば、あるいは――。
もう一つビルが激しく震えた。焼け付くような熱風が頬をなでる。迷っている時間は無い。
意を決し、息を吸い込んで幹耶は走り出す。
サーカスに駆り出された猛獣のような気分で炎の中を突っ切り、ビルの内部へ入り込む。しかしその足はどこかのオフィスに入り込む前に止まってしまう。
天井が崩れ落ち、通路が塞がれていた。
「……はっ、まずい!」
一瞬呆気にとられて動きを止めていた幹耶が、急いで進んで来た道を引き返そうとする。だが、一瞬遅かった。後方の天井が幹耶をあざ笑うかの様に崩れ落ちたのだ。
何だこれは。こんな偶然がある物か。
何者かの強烈な悪意を感じながらも、しかし幹耶には打つ手がない。一筋の汗が頬を伝う。
トドメだと言わんばかりに、幹耶の頭上に亀裂が走る。咄嗟に頭を腕で庇うが、それでどうなる訳でもない。焼けた瓦礫の山は瞬く間に幹耶をミンチにし、そのまま人肉ハンバーグに作り替えてしまうだろう。
その非情な未来が、今まさに訪れようとした瞬間――。
幹耶に救いの手が差し延ばされた。
「なーにやってんのさ半人前。それでも真斗のお気に入りなの?」
頭を抱えて屈んだ幹耶の頭上に降り注いだのは、瓦礫では無く呆れた様な罵声だった。
恐る恐る顔を上げる幹耶の瞳に映ったのは、口元をへの字に曲げてため息を付く天白雪鱗の渋い顔であった。幹耶を襲うはずだった瓦礫は、雪鱗のホワイトスケイルに全て防がれていた。
「どうしてここに……」
幹耶が雪鱗に問いかける。
「いやさぁ、デモ隊が途切れたと思ったらバースデーケーキみたいに燃えているビルが見えたのよ。例の連続火災に関係してるんじゃないかとやじ馬をしていたら、隣のビルから真斗が出てきてね」
「んで、その隊長様からお前が取り残されているから拾いに行ってほしいと言われたって訳だ」
雪鱗の後を継いで、遅れてやってきた火蓮が言葉を続ける。火蓮がその足を一歩踏み出すたびに、炎が避ける様に道を開けていく。
その有様は、まるで炎の精霊そのものだった。
「あ、ありがとう、ございます。もうダメかと」
「とぼけた事を言ってないで、ほら立って立って。家に帰るまでが避難よ」
雪鱗がどこかで聞いたような言葉を発しながら、幹耶の腕を引き上げて無理矢理に立たせ、その尻を手のひらで押す。
よろめく幹耶を火蓮が受け止め、肩を担いだ。火蓮が視線を向けると、行く手を塞ぐ炎の海がモーゼの奇跡の様に割れていく。
穂積火蓮のアーツ《火葬炉の魔女》。炎を操るその能力は、自身が生み出したもの以外にも及ぶようだった。
「マルゲリータピザになる前にここを出るよー。ほら、行った行った」
火蓮が炎を遠ざけて道を作り、雪鱗がホワイトスケイルで壁や天井を支えて安全を確保する。
天井に埋め込まれたスピーカーからノイズが走り、それに気が付いた雪鱗が片眉を上げてそちらを見遣る。
「チッ……」
確かにそう聞こえた。それは舌打の様でもあり、熱に炙られた電子機器の断末魔の様でもあった。
雪鱗は鼻から短く息を吐き、肩を竦める。そしてもう振り返ることなく、明るい太陽の下を目指して燃え盛るビルを後にした。




